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グレース・オブ・ゴッド 告発の時評論(20)
結果、やはり観て良かったです。
近年はヨーロッパ映画を観る機会が少なくなり、ハリウッド映画の「いかにも作りあげたゴージャス感」に慣れていた自分には、フランス映画特有のウェットな感覚・・・被害者たちが現在住む家、濃密な家族の在り方など・・・の描き方がとても心に染み入りました。
被害者の1人ひとりに丁寧に光を当てて描いていて、実はその妻のほうも性的被害を受けていた過去があったり、今まで息子の苦しみに気が付かないふりをしていた母親が、時を経て一所懸命に力になろうとしているところにもグッときました。
個人的に、リヨンを観光した時のフェルヴィエール教会などの景色も懐かしかったのですが、アレクサンドルが家族で祝うクリスマスのシーンは本当に美しくて・・・
息子達がカトリックの学校に通っていたり、日々の生活と宗教が切っても切れない環境にあって、それでも告発せずにはいられなかった苦しみがいかに深いものかを考えさせられずにはいられない映画でした。
静かな作品を見たい時にオススメします。
色々な被害者たちがいる。被害者たち同士でも、考え方全然違う。それでもお互いの意見を否定せずに、尊重し合う。
フランス人の そういう人との接し方が すごく印象に残った。
フランス映画なのに、邦画タイトルはなぜ英語?
フランス映画は日本人との相性がそこまで良いわけではないようで、公開本数も少ないのが現実。
そんな中、フランソワ・オゾン作品は、今回のように大きな賞を受賞していない場合でも日本で、ほぼ公開される稀有な監督。
本作は、「監督初の実話」ということで、どんな風な作品になっているのか興味を持っていました。
まず、本作と似たような題材に、2016年のアカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞したトム・マッカーシー監督の「スポットライト 世紀のスクープ」があります。
「スポットライト 世紀のスクープ」は、アメリカのキリスト教会で多発していた「カトリック司祭による性的虐待事件」という、一種のタブーに食い込んで独自に報道したボストン・グローブ紙の記者らの活躍に焦点を当てた作品です。
ボストン・グローブ紙は2002年から記事を公開し始めるのですが、それは「氷山の一角」に過ぎず、どんどん広がりを見せ、「スポットライト 世紀のスクープ」のエンディングでは世界中で蔓延していることが示されています。
本作は、まさに、それのフランス版で、記者ではなく、被害者が立ち上がっていく様を描いているのです。
私たちが押さえておきたいのは、これが今でも続いている現実です。
「スポットライト 世紀のスクープ」であぶり出されて終わりではなく、今回の「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」で扱われている実話も、まだ裁判中で未だに世界で続いているのです。
このフランスでの「氷山の一角」の話は、改めて「カトリック司祭による性的虐待」の問題の根深さを痛感させられます。
被害者側からの視点なので、「スポットライト 世紀のスクープ」とは違った別の角度から多面的に問題の構造が見えてきます。
まだまだ、この問題から私たちは目を背けてはいけないのですね。
本作はハリウッド映画のようにどんどん引き込まれていくような作りではなく、割と淡々としていますが、見ておく価値のある作品だと思います。
当方、キリスト教会でモラハラ被害を受けた元牧師です。
この、フランスカトリック教会における司祭の児童性虐待事件を描いた「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を、大きな期待と密かな恐れを持ってを見に行きました。
「大きな期待」とは自分自身の感情の整理と未だ十分に言語化できない痛んだ心を誰かの言葉で表現して欲しいという思い。自分自身が少しでも癒されたいという渇き。
「密かな恐れ」とは描かれる加害者や周囲の心ない人たちの批判が、少しばかり似た境遇の私にも突き刺さりはしないかという恐れでした。
結論から述べますが、見て本当に良かったです。涙し、励まされ、こういう言葉をかけてくれる人が自分の周りにいたらどんなに心が楽になっただろうと思いました。
私にとってのハイライトは、二人目の主人公フランソワが警察から尋ねられるシーンです。多くの被害者たちがプレナ神父からの性虐待被害を沈黙せざるを得ませんでした。彼もまた大人になり無神論者になり、そして今までの生活が変わってしまうことを恐れ被害者であることを公にしようとはしませんでした。
多くの被害者たちにとって性虐待被害を言葉にするには20年-30年の月日が必要でした。ところが時効が成立してしまったケースもあり、プレナ神父は未だ法的に裁かれず子どもたちに聖書を教え続けていました。フランソワはそのことを知り、自分の約25年前の被害を警察に相談します。
「あなたは時効前です。告訴しますか?」と尋ねる警察に「告訴します。」とはっきりと言い切るフランソワ。彼の勇気ある告発が新たな被害を防ぎ、沈黙させられてきた被害者たちを癒し始めたのです。
私は自分が言ってほしかった言葉をフランソワにかけようと思います。
「よく言った。どれほどの勇気が必要だっただろう。どれほど苦しんだだろう。どれほど周囲の目が怖かっただろう。あなたの勇気ある告発によって新たな被害が生まれなくなった。」
一方、加害者のプレナ神父は被害者に対し「自分も子どものころ神父から性被害を受けた」と告白します。作中ではこの発言は、「同情を買うための詭弁だ」と表現されていました。ですが、私は映画を見る前から、事件の記事等を見てプレナ神父もかつて被害者だった可能性もあると考えていました。
プレナ神父の発言の真偽はともかく、作中で描かれる性被害を受けた男性たちは様々な苦悩を抱えています。家族関係、性的劣等感、社会への不適応など・・・それをオゾン監督は「性的虐待被害者を時限爆弾のように描いた」と表現しています。オゾン監督は被害者たちを「時間が経って爆発する爆弾を抱えさせられた」と理解しました。そして、これがオゾン監督が表現したかったことなのだと思います。被害者たちの様々な葛藤は本当に考えさせられます。
しかし、こう言うこともできるのではないでしょうか。「プレナ神父も時限爆弾を押し付けられた被害者だった可能性がある」と。
私はこのレビューのタイトルに、「被害を沈黙させられた」様々な被害者たちに見て頂きたい映画、と書きました。
これは第一に被害の癒しのためです。共感し、自分ができなかったこと、してもらえなかったことを映画で見るだけも癒される部分があります。
そして第二に、自分自身にはいつ爆発するかわからない時限爆弾が押し付けられていることを覚えておく必要があると思うからです。被害者の心は痛んでいます。身体ですら傷があれば自身の動きに影響が出ます。心をズタズタにされれば自身の言動に様々な影響が出てしまうことは避けられません。「時限爆弾を押し付けられた」という認識が必要なのではないかと思うのです。必要な助けを求め、新たな被害者、傷の連鎖を生み出さないためにも。
最後に、興味を持ってここまで見てくださったクリスチャンの方に。
隠蔽は神の義を軽んじた結果起こります。罪を矮小化するのは、神の義が軽んじられているからです。また、赦しとは罪を曖昧にし大目に見ることではありません。罪の深刻さを明らかにし、そんな罪人の私(あなた)だからイエスの十字架なくして生きていけないのですと十字架にすがる行為が、赦しを受け取るということです。
キリスト教会が罪を明らかにしないということは罪人を十字架から遠ざけることです(そして作中でも描かれるように、教会の罪も隠すために個人の罪を隠している)。社会的地位、プライド、信用、時として長年通った教会、そんなもの全部失った方が、裸の本当の惨めな自分で十字架に近づけるのではないかと思うのです。
私は主の最善だけが為されると心から信じています。被害に遭われた方々に主イエス・キリストの慰めと癒しがありますように。