久方ぶりにジョン・フォードが取組む西部の叙事詩。廣野を背景に、深い愛情を呵責ない非情で包む西部男の物語。サタデー・イヴニング・ポスト誌連載、アラン・ルメイ原作“復讐するテキサス人”を「ミスタア・ロバーツ」のフランク・S・ニュージェントが脚色、「ミスタア・ロバーツ」に続きジョン・フォードが監督、ウィントン・C・ホックが撮影を担当。主演は「中共脱出」のジョン・ウェイン、「白い羽根」のジェフリー・ハンター、「フェザー河の襲撃」のヴェラ・マイルズ、「理由なき反抗」のナタリー・ウッド、他にフォード一家のワード・ボンド、ハリー・ケイリー・ジュニア、ジョン・ウェインの息子パトリック・ウェイン等が助演。
捜索者評論(8)
総合65点 ( ストーリー:70点|キャスト:65点|演出:60点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
物語が始まるやいなやいきなりたくさんの人名が出てくるので覚えるのが大変。そうかと思ったらあっという間に殆どが殺されてしまって覚えた意味がなくなった。
それで本編だが、州をまたいで広大な大地を5年にも渡る長い追跡というのは想像していなかったし、季節をまたぎ各地を彷徨うその大変さが感じられた。仇討ちのために半生をかけて日本中を歩いて仇を探し出すという江戸時代の話を思い出させる。そうして苦労しながら長旅を続ける彼らの執念と苦労が良かった。
しかし先住民相手に商売をして生活費を稼いだというのが出ただけでは少なすぎで、もっとその5年の生活の大変さをわからせる場面があってもいい。その意味では演出が足りない。
そして先住民の妻が死んでも主人公たちが何の感傷も見せない扱いの酷さにはがっかりする。敵役のスカーの扱いも似たり寄ったりで、白人に家族を殺された彼がどのような人物なのかを殆ど描写しないし、そもそも殆ど登場すらしない。ただ敵役として存在するだけで、しかも知らないうちに殺されていて、ただの白人側の話の中に登場する悪役扱い。これが当時の白人優位の一方的な視点から作られた作品だというのを強く意識させられる。それでもスカーに白人に家族を殺されたから同じことをしたと言わせただけまだましかもしれない。
結末のデビーの心変わりにも、それがあっさりとしていて今までの彼女の苦労はなんだったのかと思った。彼女の経験も心痛もよくわからないままに終わった気がする。
1868年(南北戦争が終結して3年後)のテキサスが舞台。
前半(クレイトン牧師が捜索隊から去るまで)は、勢いがある(面白い)。
後半は、ちぐはぐな面が目立った。
といった寸評の映画。
ジョン・フォード監督の映画は、
・駅馬車(1939年)←モノクロ映画
・荒野の決闘(1946年)←モノクロ映画
・・・と観て来たんですが、どちらもモノクロ映画でした。
ぼくは、今作で、初めてジョン・フォード監督のカラー映画を観ました。
ぼく「1868年のアメリカって、
まだランプの時代やったんやな~(まだ電気が無かったんだな~)」
と、改めて認識しました。
主な三人の捜索者
イーサン:ルーシーとデボラは姪、マーチンは血の繋がりのない甥
マーチン:ルーシーとデボラは血の繋がりのない妹、イーサンは血の繋がりのない叔父
ブラッド:ルーシーは恋人
インディアン狩りをしていたのだよ。いや彼は戦争が終わったこと知らなかった。途中で脱走兵になってインディアン殺しをしていたのである。それでインディアンたちから恨みを持たれて追われていた。
彼はそれをうすうす知っていたし、牛が盗まれたのも罠かもしれないと思っていた。だから牛が殺されてたときにすぐそれに気がついたし行動が落ち着いていた。
いや、インディアンたち相手の人数が多いことを知っていたので牛泥棒追いかけるフリをして逃げたんですよ。
インディアンの若者は彼のことを知っていたし彼はインディアンの若者を知っていた。お互いに憎しみに満ちた目をしていた。インディアンが英語を話すのを見て、インディアにさらわれた娘は、彼がした事をインディアンから聞いて知っていると分かった。
だから娘を殺そうとしたのだよ。
しかし人殺しがバレて死刑を免れないと知った彼は娘を助けることにした。
これはそういう物語だ。
ジョン・ウェインのイメージに惑わされてはいけない。
なぜ彼はあれほどまでにインディアンに詳しいのか?なぜ一行は奇襲を受けなかったのか?・・・ターゲットが1人だったからだ。なぜ成長したルーシーをさらったのか?・・・イーサンと交換するためだ。彼はそれを全て知っていたのだ。探偵のいないミステリーなのだよ、この映画は。
イーサン・・この男は差別主義者でいつも威張ってる野郎で臆病者で卑怯ものだ。
・・・コマンチが憎くて憎くてたまらない・・・1人の愚かな男の物語なのだ。
この時代の彼のような人間がすでに時代遅れのように描かれているがそれが真実だったのかどうか今を生きる私には知るすべもない。