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ダウト あるカトリック学校で評論(20)
メリルと真逆の価値観を提示するヴィオラデイビス。規則が全てではないと言い切るこのやり取りが見せ場。戸惑うメリル。それがタイトルのダウトそのものかもしれない。最初の説教にも繋がる。是とされていることに疑問を持つことから、それが社会との絆になる。
内容は;
1、NYにあるカトリック系教会学校の女性校長は生徒から恐れられる程に厳しい。
2、校長は、黒人生徒が教師と禁断の関係を持っている疑いがあると耳にする。
3、校長は疑惑をかけられた教師を呼び出し、なんの確証もなく辞職することを求める。
わたくしの好きな俳優、ガブリエル・バーンは最近、子供時代に通ったカソリック系の学校で性的虐待を教師から受けていたと告白しました。本作でも同様の題材が描かれている所をみると、この問題は現代でもあるのかなと思いました。
それでも本作のポイントは実は性的虐待問題にあるのではなく、題名からも分るように「疑い」という心理にあります。校長は確証もなしに問題の教師を追放しようとする。
枕を引き裂き、中の羽毛を屋根からまき散らす。そして、風で方々に散っていった羽毛を再回収することは不可能である。これが噂の本質なのだ――疑いをかけられた教師が言うこんな話がとても印象的。
前に観た「ブッシュ」から分るように2008年という年はアメリカでは「確証なき疑い」というものが社会的テーマだったようです。
本作の見所は、校長演じるメリル・ストリープと教師役のフィリップ・シーモア・ホフマンのまさしく火花散る演技対決にあります。地味な題材も役者の名演で見所満載にできるお手本のような作品です。
すごく面白く観させてもらったのですが、なぜか食い足りないというのが実感でした。でも、この腹八分目にとどめた世界が実は一番居心地の良い世界なのかもしれません。飽食家だけが「疑い」や「噂」で人を食い物にしようとするのでしょう。
それでも、歴史の形成というものに「疑い」と「噂」は実は欠かせない要素なのかもしれません。いずれにせよこれから長い間、心の中に本作を留めておくと心の良薬になりそうな作品でした。
ラストも、もやもや。
しかし、魅力的な映画でした。
ラストまでキリキリ巻き上げて、いきなりポンと解き放たれる映画。
総合:75点
ストーリー: 70
キャスト: 85
演出: 80
ビジュアル: 70
音楽: 65
もちろん当事者にしては十分に大きな事件だが、殺人や強盗があふれている映画の世界において、主題としては意外なほど小さな出来事である。それなのにこれだけの緊迫感を保てる出演者の演技と演出の質が全体に高くて驚いた。
ボールペンの使用一つをとっても口うるさい強情な校長が、一度疑いを持ってしまえば、神に背こうが自分の職を失うことになろうがとことんやるのだという信念の強さが伝わってくる。そのためには嘘もつくし正面切って追い込み脅迫じみた言動をもじさない。本当はそれによって自分をも追い込んでいて、思わず最後に弱さと涙を見せても、決して強気の姿勢を相手の前では崩さない。神父との対決の中で彼女が告白した「過去の過ち」があるから、今度は過ちを犯さないのだということを示しているようだ。真実がはっきりわからない状況で、そのような意思の強さ、交渉のうまさがはっきりと理解出来て楽しめた。
疑いはあるものの、真実はわからない。校長は前歴を調べて前の職場のシスターに聞いたと言ったら神父が引き下がったから、神父はやっていたのだと判断した。だが神父にしてみれば、校長に疑いをかけられしつこく調査をされれば、本当はやってなくても周囲の人はやったと思い込むであろうことを恐れるだろう。この映画の視聴者だって、多くの人が神父はやったと思ったのではないだろうか。そうなれば神父としての職歴に致命傷となるかもしれない。それならばたとえやってなくても、自分の傷が浅いうちに身を引いてそれ以上の損害を避けただけという可能性も残されている。
その曖昧さの残る中で、登場人物のそれぞれの考えや決断が興味深い。現実社会だって何もかもがはっきりしているわけではないのだし、ましてこれは警察や裁判の話ではないのだから、そのような情報も証拠も限定された状況の中で判断を下さなければならないということが、現実社会の難しさを表現している。
また少年の家庭環境の複雑さ、そして社会一般で悪いと思われていることが、必ずしもそうとは言い切れないという状況の複雑さの設定もよく考えられていた。