デトロイト・ロック・シティ
プロット
アメリカ
10月14日 2000 台灣上映
デトロイト・コップ・シティ
プロット
アメリカ
01月01日 1900 台灣上映
デトロイト・メタル・シティ
プロット
日本
08月23日 2008 台灣上映
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デトロイト評論(20)
黒人差別に関係した映画は数限りなくあると思うけど、何人の白人至上主義の人達が、それらを観て、自分の理不尽な考えに気付く人がいるのだろう?この「デトロイト」も差別主義者の白人警官による無実な6人の黒人へのエスカレートした拷問を強烈に表現されていて、異様な緊迫感に満ちた臨場感あふれる映画でしたけど。映画として大変に良かったけど。何人の人達がこの映画で、改心したのか?この映画が黒人差別を排除する一つの材料であることを願います。
本当の話だからこそ、怒りとか悲しみが沸き上がる。
最後の結末がすっきりしなかったりして、悪は滅びてほしいと本当に思う。
ただ、誰の心にもヘイトの芽が眠っていることが顕在化してきた現代にあって、この映画は決して他国の昔話や他人ごとではないのではないか。それはウィル・ポールター演じる最大の憎まれ役である白人警官が、性質として邪悪に寄っているかも知れないが、決して心が強い者として描かれていないことからもわかる。弱く怯えているからこそ彼と仲間たちは暴走するのである。
実際のアルジェモーテル事件では、二人の少女は「黒人といちゃつきやがって」と警官たちに裸にされたという。そこをぼやかした意図はちょっとわからない。これ以上陰惨になると伝えたいテーマが伝わらないと判断されたのだろうか。いずれにせよ、自分がいかに弱き者であるかと向き合うためにも、誰もが観て損はない力作だと思う。
中心となる警官はステレオタイプの人種差別主義者で(ITやメイズランナーでいじめっ子が板に付いたウィル・ポールターが適役)、発砲の証拠探や、ホテル客の身分証明書を確認するという当たり前の初動捜査をせず、はなから「黒人は敵」と決めつける。
ジョン・ボイエガが演じるディスミュークスは日々を安穏とすごすための戦術として、軍人や警察と良好な関係にあろうとするが、ホテルでの惨状よりも裁判での権力の構造に絶望したように思える。
このような歴史が色濃く残っている限り、銃社会というアメリカの構造は変わることはないのだろう。
権力を持つ人間の暴走を止めるために、誰しもが銃を持つ自由な権利があると言われれば、そこに属していない人間としては何も言うことができない。
今コビット19で新たな人種差別が起きようとしている。終息してからも、いや、もしかしたら感染が終息してから、一部欧米人たちが日本人と中国人もいっしょくたに、アジア人差別を繰り広げるかもしれない。
コビット19では政府の自粛要請に従わなかった飲食店や興行は「ずるい」と批判される。
デトロイトでも、同胞の黒人の店だろうと構わずに破壊行動は行われた。怒りのはけ口に任せて行動すると、結局、仲間同士の足の引っ張り合いになる。
しかし暴走した権力に対抗するにはどうしたら?
一時的な暴動なら、鎮圧されて終わりだ。それ相応の武力をもって暴力に訴えたとしたら、長い内乱になるかもしれない。自分たちが勝利者になったとしても、次は立場が反転した相手から、反乱が起きるかもしれない。いわゆる泥沼だ。
結局、私たち観客がこの映画を目にしたように、勇気を持っていつか誰かの心に届くまで、起きたことを世に訴え続けなければならないのだろう。
またはディスミュークスのように権力側とうまくつきあい、権力構造の中に自分たちが入り込んでいくしかないのかもしれない。
しかしそれには長い時間がかかるし、屈辱に耐え続けなければいけない。権力に取り込まれたと、同胞から非難を浴びるかもしれない。自分の世代では成し得ないかもしれない。未来ではその努力がおじゃんになるかもしれない。でもそれを信じて進まないと変化は訪れない。
「デトロイト」で起きたことは持つもの、持たざる者の闘争という人類史の縮図といえる。しかし結局、それは人間の根に他人への恐怖というものがあるからだ。自分がその恐怖で目がくらむ側になってはいけないと、思う。
社会問題に斬り込みつつ楽しますシドニー・ルメット に及ばぬ。
意識したろう「狼たちの午後」「セルピコ」を改めて評す。
この監督には社会問題よりハートブルーなエンタメを。