高校銃乱射事件の被害者家族と加害者家族による対話を描いたドラマ。アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が発生。多くの同級生が殺害され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。事件から6年。息子の死を受け入れられずにいるペリー夫妻は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をすることに。教会の奥の小さな個室で立会人もなく顔を合わせた4人はぎこちなく挨拶を交わし、対話を始めるが……。加害者の両親をドラマ「ハウス・オブ・カード
野望の階段」のリード・バーニーと「ヘレディタリー
継承」のアン・ダウド、被害者の両親を「ハリー・ポッター」シリーズのジェイソン・アイザックスと「グーニーズ」のマーサ・プリンプトンが演じる。「キャビン」などの俳優フラン・クランツが初監督・初脚本を手がけ、密室で繰り広げられる4人の会話劇を緊迫感たっぷりに映し出す。
対峙評論(4)
一見、対極に位置すると思える。
しかし、ながらその家族が、話を進めるうちに私には見えてきたことがある。
それは、どちらも、全くの当事者ではないということ。
被害者でもなければ、加害者でもない、いわゆる、極めて当事者に近しい傍観者であるということ。
傍観者が話し合ううちに反目するベクトルがいつのまにかジョイントしていく様は凄いなと思います。
ただ、思春期の子供を持ってない方には、効果音や音楽もないこと、カメラワークが単調であることなどを考慮すると少し退屈に感じるかもしれません。
同じ室内会話劇でも、「12人の怒れる男亅のようにはっきりした結論が出ない(出せない)だけにもどかしくもある。
万人向けの作品ではないけれど、こういう作品もあっていいかなと思います。
文化映画の様相を呈してるかな。
「息子さんについて何もかも話してください」
密室で繰り広げられる4人だけの会話
我が子を失った被害者と加害者の両親
それぞれの苦悩が映し出される
被害者側、加害者側
誰の立場にも身を委ねたくなかった
だだ傍観者として
4人の会話を聴いていた
許すことなんてできないけど
話し
自分の心にも向き合うことで
救われるのかな
聞こえてくる音
見えた景色
灯る光はしずかで
4人の会話を聞きながら
救われてほしい
そう願った
俳優 #フランクランツ 初監督・脚本作
対話の流れを見守る
すごい作品です
「mass」
*集まり、集積、不定形の大きな塊
*ミサ、ミサの儀式、ミサの曲
カトリック、プロテスタント、正教会
聖公会、、、
教派のことはよくわからないけど
場所に選んだ教会にも意味があるのかな
「強い、激しい、徹底的な、集中的な、強意の、強調の、内包的な、集約的な」という形容がぴったりの映画で役者同様、私も心身ともに疲れた。初め、何が起こるのか検討がつかなかった。何のためにテーブルがセットされるのか?4脚の椅子は果たして誰が座るのか?そのうち、エピスコパル教会のボランティアらしき青年、アンソニー(カゲン・オルブライト)は教会のジュディー(ブリーダ・ウール)に聴きすぎるといいわれなからカウンセラーらしき女性,ケンドラ(ミッチェル・N・カーター)に、’『今
までに経験がある』と尋ねる。彼女は6年と答える。それに、ティシュの位置をどこにするかケンドラは的確に指示をだす。何かセラピーが始まるのかと思いきや、窓のステントグラスの生徒のプロジェクトに対して、ケンドラは肯定も否定もしない。ここまでで、子供の問題か何かで、慎重に話し合わなければならないことが起きると感じだ。
それから、ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲール(マーサ・プリンプトン)の夫婦(エヴァンの両親)が車で現れる。教会で誰かに会いたくないが、一大決心をしてきたようだ。教会の中でケンドラがこの二人に次にやってきたリンダとリチャード夫妻(ハイドンの両親)を紹介して、その場をさる。これはカウンセリングじゃないなと感じさせる。
ここから対峙が始まる。
リンダが手製の花の鉢をゲールに差し出す。四人だけで話し合いが始まるが、リンダ(アン・ダウド)とリチャード(リード・バーニー)夫妻の誰かが何か害を与えたことが理解できる。最初からこの家族は課題の確信に触れない。触れられないというか躊躇しているような雰囲気が十分に出ている。何か悩みを抱えているようだ。雑談と言われるような会話で子供たちの写真を見せあったりしていくが、段々、口調も態度も大柄になったり、静かになったり、感情のムラがでてくる。スリラータイプの物語で、何が起きるのか徐々に紐解かれる。この紐解き方が脚本の素晴らしいところ。俳優も演技力があるから表情や動作だけでも一人ひとりの違いが出ていて、夫婦単位で見ても、個人単位で見ても、四人一緒の単位で見ても、お互いが連動していて絶賛に値する。
あらすじを書きはじめたが、これと二家族の心理を分析して、ここに描写するスキルは別である。私には心理や心情分析のスキルはないので、このストーリーを深く追求できない。悪しからず。
しかし私は親だけど、子供の死をこのように迎える立場に立って考えるのは難しい。殺された両親の気持ちを理解するのも、殺した両親の気持ちを理解するのも難しい。それも、両親とも子供を失ってしまったのだから。どの立場にたっても私ならと考えつかない映画で、会話に集中するだけだった。
俳優であるフラン クランツは監督や脚本までこなしている。1999年の米国コロラド州で起きたコロンバイン高校(Columbine High School)銃乱射事件と同じ設定なっているとおもう。でも、両親の心の中をこのような形で吐き出させているが、こんな経験をどこで積んで脚本を書いたのだろうか?俳優の表情や動きが上手いだけでなく、全く知らない役者だが一流だなと思った。それに、現在の課題、特に、コロナ・パンデミックでの結果、精神的に学校に戻れなかったり、コンピュータゲーム中毒やSNS中毒になってしまったり、孤立化してしまったり引きこもりになったりしている学習者に(ここでは高校生)対する教育は重要で勉強が遅れてしまったどころの騒ぎではない。将来、人間形成に与える影響が大きいので学校ではSocial Emotional Learning(SEL ) 日本語で「社会性と情動の学習」の講習会が増えているようだが政治組織や学校などのこの改革案が効果を見せているのだろうか?
この作品の設定はパンデミックが始まる前で、すでにこのような混乱現象は起きてニュースで聞いている。学生の乱射事件やいじめ、憎しみ、精神不安、友達ができなく孤立化してしまうなどは重要で、そして、現在も抱えていて、より深くなっていく問題をストーリーに加えている。あっぱれ!
そして今パンデミックの弊害が顕著になっていて、社会が暗礁を乗り越えられずにいる時代にぴったりのトピックだ。それだけではなく、コンピュータ中毒や銃社会ではこれらの諸問題の解決策は見出せないよと教えていると思う。解決策は「人間と人間の力」がいるよと言っていると思う。なぜかというと、この家族が子供を失うという人生で最も悲惨な経験をして裁判で結論は出している。でも人間同士の問題だから面と向かって正直に話し合う「対峙」によりお互いの気持ちを曝け出して許せたから。人間どうしだからできることである。立場は違っているけど相手の気持ちに寄り添えたから。人間の心の技でそれを証明した。人間ドラマである。
英語のタイトルを使うと、自殺も含めた大量(mass)殺人(11人?)となるが、エピスコパルの礼拝のように人が集まってきて礼拝するの意味もある。四人の心には悲しみは残るが心が洗われてやっと一歩踏み出せるという希望が見出せる状態になったと思う。映画の最後の『灯り』がその意味をもたらしていると思う。
勝手な解釈だが、日本語では「対峙』となってるが、宗教的なタイトルをつけると、商売にならないから対峙としたと思う。「贖い」がテーマになっていると思う。エピスコパル教会が対峙の場所としてセットされているのも大きな理由だが、映画の最後30分に説明されている。例えば、エヴァンの母親、ゲールが『許すよ』と何度もいうシーンがある。「初めは罪を償ってもらおうと思ったけど.....自分は息子、エヴァンを失ったけど......許すよ、ハイドンも」と。その時、周りはこの言葉をどう理解したらいいか困っていたようだ。夫のジェイでさえ。ゲイルは本能的に現状を維持しては生きられないことを知っている。ゲールはそして、自分のことを「深く傷ついた状態で生きられない。眠れない。」という。「恨んで生きていけない」と.....その後、それぞれが対峙した部屋を去っていく時、ゲールの目は「キリストが十字架にかかっている」ところへ。キリストが我々の罪の代わりに死んでくれた。そして、我々は罪人であるという意味で、ゲイルは十字架を見いながら全てを許すと再確認しているように見える。映画の最初で部屋の十字架の位置を見ておくとそれがわかる。
最後のシーンは私にとって圧巻だ。ハイドンの母親、一旦出たリンダが戻ってくるシーンだが、リンダは息子が「何も口を出すな殴ってやる」と叫んだから、彼女は自分の部屋に入ってしまったと。その時、彼女は「母親を殴れ!」というべきだったと。リンダは16歳の時の息子と親との壊れた関係をここで初めてエヴァンの両親に伝えた。そのために戻ってきたと思うが、母親が殴られ、(殺されて?)いたら、この事件は銃乱射事件にまで発展しなかったかもと映画を見ながら思った。ハイドンは極度の怒りをここで発散しなければ、治らないと思えた。親が、子供と対峙せず、誰が対峙できる。その意味でも対峙という日本語訳は一役かっていると思う。ゲイルはここで、リンダを抱きしめる。リンダも被害者で苦しんでいたことを悟り、彼女の気持ちに寄り添うことができる。ジェイとゲイルは教会の対応に(花を入れる箱)に戸惑いを見せながら、讃美歌を聴くチャンスに恵まれる。ジェイは自分のことをキリスト教(プロテスタント)と言っていたが、明らかに、俄クリスチャンぽかった。しかし、讃美歌が彼の心をとかし『許す』心を与えてくれた。ゲイルのように「許すよ」と言えなかったけど、ここで、自分への蟠りが溶けていったと思う。いいシーンだ。二人は教会に戻るかもしれないと思わせた。
米国の変わらぬ銃社会への強烈なメッセージかとも思ったが、いや...「ゆるし」合うことで次の生き方を見つけることができるのがメッセージだと思った。私だって、娘が殺されたら、何年経っても相手を許せるとは思えない。しかし、許さず生きていくことは苦しいことなんだとわかった。
被害者と加害者、どっちの気持ちにも共感する。たとえ二度と会えなくても息子の思い出も愛も消えない。それはどちらも同じだから観ている方も苦しい。
ねぇ、これアカデミー賞じゃないの。。?
これはただの銃乱射事件じゃないよ。
高校で起こった銃乱射事件の犯人の両親と被害者の両親による修復的司法を対話のみで描いた作品。
何が起こったか、どんな状況だったのか、そしてつまりそれはどういう事件だったのか、をこの4人の対話のみで語られていくのだけど、全員すごい演技力で人間しか出てこないのに画面から目が離せない。
ものすごい迫力。
何がどうしてそうなったのかを知りたい被害者の両親だが、犯人の両親の語る「彼らの信じていたい私の知っている可愛い我が子」像に納得がいかず、しかし同じ親という立場からの共感せざるを得ない部分、これは主に息子への愛だと思うけど、そういう色んな気持ちが混ざって感情が激しく上下していく様が凄かった。
ずっと何かを憎み続けて生きていくのは辛い。そして人は人の不幸に対して興味を持つけど、それに対しての適切な助けはなかなかしないし出来ない。だから自分の不幸には、自分で自分の気持ちに折り合いをつけるしかない。
最後の彼女の選択はみんなどう思うのだろうか。(私はとてもキリスト教の国の人たちだなと思った。)
BGMはほとんど使われないのもまたいい。
ラストシーンに生きてくる。
監督はコロンバイン事件が起こった時、ちょうど同じような年齢でそれも怖かったけど、パークランドの事件の時にお子さんが2歳で子どもが育つ社会でまだ銃乱射があることに不安を感じて何かできることはと考えて作られたとのこと。
うん。
これは観るべき。
ドキュメンタリー映画よりリアルに感じた。