理想の夫婦のつくり方
プロット
アメリカ
01月01日 1900 台灣上映
ビッグ・リトル・ファーム 理想の暮らしのつくり方
プロット
アメリカ
03月14日 2020 台灣上映
私の中のあなた
プロット
アメリカ
10月09日 2009 台灣上映
あしたのわたしへ 私の卒業 第3期
プロット
日本
03月18日 2022 台灣上映
ふたつの部屋、ふたりの暮らし
プロット
フランス・ルクセンブルク・ベルギー合作
04月08日 2022 台灣上映
フレンチなしあわせのみつけ方
プロット
フランス
04月02日 2005 台灣上映
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あしたの私のつくり方評論(5)
前半、成海さんが上手いだけに、
AKB48の前田さんの下手っぷりが
気になって仕方がなかったが、中盤から後半にかけて、
逆に、その演技が役柄にマッチしてきて「もしかして
監督の作戦だった?」とうならされてしまった。
『本当の自分探し』がテーマ。
これくらいの年代に誰しもが考えることだと思う。
描きようによっては、ジメジメした内容になりそうだが、
そこは、なるべくそうならないように構成されていた。
ラストも、無理に盛り上げず、
「感じてくれる人だけ感じてくだされば、それでいいですよ」
そんな雰囲気が、すごく自然に心に溶け込んできた。
残念なのは、本当に観て欲しい世代が一人もいなかったこと。
全員、明らかに成海さんか、前田さんのファンとおぼしき、
彼女がいなさそうな、20代後半から30代の男性ばかりだった。
そして、もう一つは、暗転が、やたらに多いので、
気になる人は全く作品に集中できないかもしれません。
私は、途中で世界に入り込んじゃいましたので
気になりませんでしたが・・・。
”ティーン女子にんげん関係めんどくさいあるある”・・の思いを綴ったさくひんでした。
携帯しょうせつの映画化か何かなのかな?
おとこめせんから見ると”携帯小説”なイメージ。意味つたわりますかね
ムズカしくないメッセージ性でかるい口当たり
ものがたりのどこかで出る
”テレビ電話”ってキーワード&演出が すーぱー爺くさい
そこ以外で突出した う~ん という部分は・・
”ふら前い田ん敦ぐ子げっと”
・・35分ほどで違和感も消えて 可愛らしさもあるっちゃあるけど
ハイパーぐれーとあるてぃめっと美少女全盛期&ぱわふる女優の成海璃子と肩をならべると・・
やっぱり浮いちゃう。
高校生になり、日南子が転校していったという噂を聞き、正体を明かさずにメールする寿梨。本当の日南子を取り戻してほしいと思うが、文芸部に入ったこともあり、自作の小説を書くようになった。“かなこ”だから“ヒナ”。寿梨の助言通りに行動して、クラスの人気者になっていくのだった・・・
学校は子供達の修羅場=戦場なのかもしれない。
誰かがジョーカーを引いてくれる事を、皆息をひそめて待っている。
引いてしまったら次の誰かが標的になるまで、ひたすら耐えぬくしか
生きる術はない。
家では不仲の両親のカスガイを努め、学校では目立たぬよう
クラスメートに溶け込む事に全神経を集中させている「寿梨」には、
成熟しかけの少女のか細い体つきと硬質な美しさと確かな演技力で
すでに大女優の風格さえ感じさせる成海璃子
小学校では明るい優等生で人気者だったが、ジョーカーを引いてしまい
「いじめられている私は嘘の私」と鎧のような殻に逃げ込んだ「日南子」
を演じるのは、あどけなく控え目な表情の中に意思の強さがかいま見える
AKBの前田敦子
演技の巧拙が少し気にはなったが、15~16才という若さで、すでに
二人共したたかな存在感とオーラを持っている。
仮面の中に本来の自分を隠しているという意識が、双生児のように
似通っている寿梨と日南子。
彼女達は学校ではすれ違いながら、携帯(メール)で繋がり始め、
最後に直接TV電話で話す場面では、それまで寿梨の操り人形のように
振舞っていた日南子が殻を脱ぎ捨て、彼女自分の言葉を寿梨にぶつけていく。
そして寿梨もまた仮面の中に閉じ籠っていた心を開き、素直に泣く事ができた。
あしたからまた生き抜くために仮面をかぶる事もあるだろう。
だが、ありのままの自分を見せられる友を得た事で、二人共少しずつ
本当の自分を育てていく事ができるようになるだろう。
痛々しさと愛おしさを感じる映画だった。
この作品の奇妙なところは、登場人物に個性が感じられないことです。逆に言うと、個性などあってはならない子どもたちの世界を描いたからこそ、個性など存在するべきでない、と言いたげな珍しい作品なのです。
だから、物語の進行はナレーションが中心とした心理描写が多いのですが、その場合、映画を見ている者はナレーションがうるさく感じがちになるのに、そうはならない、そこがこの作品の面白いところであり、衝撃的なところでした。
この作品に登場する女の子たちは、常に自分でない誰かになっている、または誰かに頼って生きています。そうしなければ、学校でいじめにあい、家族がうまくいかない。「私はかすがいになる」や「自分を隠す」など、映画の前半は子どもとは思えないセリフがいくつも出てくるので、見ている者は衝撃をおぼえるのです。
ところが主人公が、以前にいじめられていた同級生に自分を隠して物語のメールを打ち続けるあたりから、映画の物語もそのメールの物語同様の面白さに溢れてきます。このあたりのストーリーテリングのうまさは、さすがに監督市川準ならではと唸らされました。繊細に少女たちの行動、そして表情をさりげなくとらえていくカメラの動きが本当に素晴らしい。
後半、物語のメールを送る側、受け取る側のお互いの少女が他人を演じるのではなく、自分でありつづけたいと思うようになります。しかし、スクリーンの外側から見ている、私たち大人たちはそうしようとする女の子たちに不安をおぼえてきます。それは、大人になるにつれて、自分とは何かに迷うことを我々は知っているから。
監督はあからさまに、そんなメッセージを演出の中に残しません。しかし、観客はそれをゆるやかに感じるのです。映画は静かに終わるのですが、登場した少女たちの物語はこれから、というところが、切なくなってきました。
この作品は、少女たちの世界を描いて見せながら、実は現代社会の歪みの中で暮らす、没個性な一般人そのものまでもとらえている点でも、とても興味深いものがあります。大人がこの少女たちの世界を、怖いと言っているようでは駄目、と言いたげな市川監督のニヤリとした顔が目に浮かんできそうになりました。