堤幸彦監督と堤真一が初タッグを組み、雫井脩介の同名ベストセラー小説を映画化したサスペンスドラマ。一級建築士の石川一登と校正者の妻・貴代美は、高校生の息子・規士や中学生の娘・雅とともに、スタイリッシュな高級邸宅で平和に暮らしていた。規士は怪我でサッカー部を辞めて以来、遊び仲間が増え無断外泊することが多くなっていた。
ある日、規士が家を出たきり帰ってこなくなり、連絡すら途絶えてしまう。やがて、規士の同級生が殺害されたニュースが流れる。警察によると、規士が事件に関与している可能性が高いという。行方不明となっているのは3人で、そのうち犯人と見られる逃走中の少年は2人。規士が犯人なのか被害者なのかわからない中、犯人であっても息子に生きていてほしい貴代美と、被害者であっても彼の無実を信じたい一登だったが……。
貴代美役に「マチネの終わりに」の石田ゆり子。「八日目の蝉」の奥寺佐渡子が脚本を手がけた。
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望み評論(17)
そして、第5の主要キャラクターと呼びたくなるほどの存在感を放つのが、堤演じる建築士・一登が自ら設計した石川邸(外観は実在の家だが、室内はセットを構築)。アイランドキッチン、妻の仕事スペース、2階との行き来が一目瞭然な階段など、開放感あふれるリビングの空間構成は一登の理想の具現化だが、長男の失踪後は3人の食い違う“望み”が衝突する修羅場と化す。
行方不明の身内が殺人犯か犠牲者かという両極端の可能性に翻弄される家族を、マスコミ・ネット・世間が追い込んでいく光景は、悲しいかなこの国の現実を確かに映している。
何と言っても辛いのは 学生が問題を自分たちだけの世界で解決してしまおうとして、悲しい結末を迎えてしまう事。
今思えば、自分の子供時代に”いじめ”で辛い思いをしても 誰かに解決してもらおうと働きかける勇気が無かった、知らなかった…
これは自死をする話ではないが、視野の狭い子供達に手を差し伸べて救ってあげたいのに頼ってくれないジレンマ。
どんな形であれ生きていて欲しい、と思うのがすべての母親の願いである。
話しは違うが
冒頭のカメラワークが凝りすぎていて、目まいがしてきて、役者のセリフを聞きたいのに集中できなかった。
役者をズームアップして行く程の会話でも無いのに、やけに凝ってズームしたり、ぐらぐらとカメラを動かしたり、
気になって仕方がなかったのがとても残念。
早々につらい2択を突き付けられる。
自分の息子は加害者か、被害者か。
どっちだとしても家族にとってはバッドエンドに変わりない
家の前に連日カメラや記者が張り付き
壁には誹謗中傷が落書きされ
生卵が投げられ……
堤真一がそれを見つけて、ホースで洗おうとすると、記者たちが押し寄せる。
何度心の中で、「そのホースを記者たちに向けてしまえー!」と思った事か笑
だけど、それをやってしまうと、どうなるかは、ある年齢以上の人は想像がつくと思う。
近年では報道の仕方され方が問われ始めているが
また一つそれを考えさせられる作品が「望み」だと思う。
今年は特に(そしてまさしく今日も)
悲しい事件が起きたりしているので
それらに対しても何かしらのガイドラインがそろそろ出来ても良いんじゃないかと
思った次第です
見終わって、『望み』と云う言葉について、改めて考えてみた。
辞書には、
・そうなれば良いと思うこと
・そうしたいと思うこと
・良いほうに進みそうな見込み
とある。
つまり、
『望み』の対象が、自分以外の誰かの場合は、相手に対する一方的な想いに過ぎない、と云うことだと思う。
父親が、母親が、妹が、そうなればよいと思うこと
マスコミが、事件記者が、ネットが、第三者が、そうなればよいと思うこと
あれも『望み』これも『望み』。
一方的な想いと云う意味では、両者に違いは無いように見受けられる。
しかし、両者には大きな隔たりがある。それは、[望む]前の繋がりの強さ深さである。
だから、繋がりの無いマスコミ等の『望み』は、軽薄で無責任に感じるのだと思う。
そして、見えないナイフで相手の心をグサグサ刺そうが、心が血だらけになっていようが、何も感じないその姿勢に、嫌悪感を抱くのだと思う。(色々自己弁護して絶対反省しないしね…)
[望む]前に、
[そうなれば]と思う前に、
大事な人とたくさん且つキチンと繋がっていたい、そう思わせてくれる良作だと思います。
無い物を創造するプライドはないのだろうか。
こんなパラサイトを真似た気概の低いモノを見たくない。