「早春」以来、久々に登場する小津安二郎、野田高梧のコンビが執筆した脚本から小津が監督した話題作。父を裏切って家出した母を求める娘の激情を描く。撮影は「あなた買います」の厚田雄春。主演は「白磁の人」の有馬稲子、「大番」の原節子、「暴れん坊街道」の山田五十鈴、「顔(1957)」の笠智衆。ほかに「情痴の中の処女
天使の時間」の高橋貞二、「近くて遠きは」の杉村春子、「正義派」の田浦正巳、それに山村聡、信欣三、中村伸郎、宮口精二、浦辺粂子、三好栄子、藤原釜足、増田順二、長岡輝子のヴェテラン。菅原通済が特別出演している。
東京暮色評論(10)
小津監督の最後の白黒作品
60年安保に向けて世相が騒然となりつつある中で、松竹大船調がのんびりとしたプチブルジョア的だとの批判を受けていた事に対応したものかもしれない
政治的なニュアンスは微塵もないが、戦後世代の自由な生き方の実相をえぐろうという監督の意欲は大変伝わってくる
但し暗く、重い
原節子も麦秋で見せたような毒のある役を演じる
珍珍軒の主人の台詞
アプレ(ゲール)のよ、あの子だよ
おい、下の口を閉じといてくれ
まさか小津監督作品でこのような下品で辛辣な言葉を聞くとは思わなかった
明子と喜久代の台詞
ねぇ、お母さん、一体私誰の子なのよ!
そんなことまで私を疑うの?
この会話は明子と学生木村の会話の相似形でハッとさせる
戦後民主主義の子供なの?
戦前から地続きの日本の子供なの?
それがこの場面の真の意味だ
明子や孝子がこの様になったのも、彼女たちの親の世代に責任があったのではないかと追及し、その通りであったかも知れないとの自責の視点が発する言葉だ
クライマックスの踏切の恐ろしさは初めて登場するときから漂わせている演出の見事さ
学生木村の無責任さは、病院にすらついてきていない
これは小津監督の学生運動への不信の視線を反映していると思う
だから当時の若者たちには支持されないのも当然なのだろう
ラストシーンで周吉は孝子が忘れて帰った赤ちゃんのガラガラを愛おしく振ってみせる
本当の戦後世代には罪はない
健やかに育って欲しい、その願いが込められている
結局のところこのような社会性を持たせることは小津監督作品にはなじまない
それが観客にも、監督にも明確になったと思う
それでも、本作は傑作であると思う
厳格な構図(俳優も完璧な小道具の一部)と反復される緻密なショット。その完璧主義には狂気すら感じる。
小さなカメラを通して、その「完璧な美」で世界全体に対抗しているような小津安二郎を私は愛して止まない。
永遠の別れ。小津は,常に夫婦や親子の一方を失わせることによって家族というものを描いたが、本作の別れは、人間が人間の社会から追放されるとは何かということを含んでいた。
明子は自分を東京のゴミのように感じている。
母を知らずに育った孤独を他のもので埋めようとしても魂は立っていられない。
ズベ公、お嫁に行けない、汚れた血。男子の死、ギャンブル、無責任。下劣なセリフ。
男女の役割が明確で、大衆心理が世の中のすべての決定権をもつ社会。踏切の「金鳳堂メガネ」の看板の目が怖い。
社会が敷いたレールの上で、真に自立した精神を持つことが難しいのは現代も同じ。
オープニングの露地の呑み屋。「露」は露出すること、何かが内から外へ露れる(あらわれる)ことをいう。夜露や露地が印象的。
「正」から「負」に転落したものとして世の中に晒されるようなイメージを感じた。
家族の血縁意識は強い一方で、「自己」と「非自己」の関係の冷たさが浮き彫りになる。
ラストに、お手伝いさんは出てこなかった。かつての「お手伝いさん」という身近な他者はもういない。
戦後民主主義の空気感が漂う。
ダーク過ぎてトラウマになりそう。
映画「東京暮色」(小津安二郎監督)から。
父娘ではなく、母娘といった親子の愛情をテーマにした、
作品だな、と感じながら、メモしていたら、
偶然にも、こんな台詞にぶつかった。
「親子の愛情なんてものも、考えてみりゃあ、
一番、プリミティブな動物本能でしょうね」
小津監督らしい独特の英単語が入った台詞。(笑)
ふだん、そんな会話をしないだろうと思いながら、
やっぱり気になって、選んでしまった。
「プリミティブ」とは「原始的なさま。また、素朴なさま」
「自然のままで、文明化されていないさま。原始的」
なるほど「親子の愛情は、一番素朴な動物本能」ということ、
好きだ、嫌いだ、という感情ではなく、理屈抜きに、
親は子どもを命がけで守る本能だということだろう。
と考えると、現代の親子関係は「プリミティブ」ではなく、
「複雑」ということか・・。
「複雑」って、英語は「コンプレックス」だったよなぁ。
・いろんなことが重なってつらい。だけじゃなかった
・姉の決断はよかった…