日本で生きる2人のクルド人青年を5年以上にわたって取材し、日本におけるクルド難民の実情を切り取ったドキュメンタリー。故郷での迫害を逃れ、小学生の頃に日本へやってきたトルコ国籍のクルド人のオザンとラマザン。難民申請を続け、入管の収容を一旦解除される仮放免許可書を持つが、身分は不法滞在者だ。いつ収容されるかわからない不安を常に感じながらも、2人は夢を抱き、将来を思い描く。しかし、現実は住民票もなく、自由に移動することも働くこともできない。そんなある時、東京入管で長期収容されていたラマザンの叔父メメットが極度の体調不良に陥る。しかし、入管は家族らが呼んだ救急車を2度にわたり拒否。メメットが病院に搬送されたのは30時間後のことだった。2人のクルド青年の日常から、救いを求め懸命に生きようとする難民、移民に対する国や人々の在り方を問う。監督はドキュメンタリーディレクターの日向史有。
東京クルド評論(16)
さまざまな何故?どうして?を語らずに、現状だけのドキュメンタリーにはどうしても「足りなさ」を感じてしまう自分がいます。不条理なのか?なんなのか?理由が明確ではないが、辛い状態の弱者を映し出し、問題提起をしている風な作品がどうも釈然としないのです。
ですが、この問題にスポットを当て、面接音声を残すなど結構ギリギリのことを実施しているあたりはを結構攻めています(きっと盗み録りでしょう)。現在はこうなっていますと映すのであれば、やはり「何故」を出さないと、感情的な民意を扇動しかねないのではないでしょうか?それほど、難民認定されない方々の扱われ方はひどいです。
入国管理局絡みでは、最近も女性が命を落とされるニュースがあり、きな臭さを感じています。今がこうです、ではなく何故こうなっているのか?をつまびやかにしてくれる作品を待ちたいです。
双方の事実があってこそのドキュメンタリーだと僕は思ってますから。
しかし、なんとも縦組織の権化ですね、日本は。
仕事をするは許されないが、仕事するために必要な免許はとれるとか・・・象徴ですよね。きっと、厄介で金にならない難民問題に首を突っ込む政治家や役人がいないんでしょうね、金になる某世界的運動会にはとんでもないパワーをかけるのに。こんなことやってたら世界から取り残されていくんでしょうね。
ラムザンの家庭は経済的に裕福みたいですが、その源泉は明かさない。闇を感じるなぁ。
まったく知らなかったが、入国管理局に、難民と呼ばれる人達が何年も拘留?収容?されているというから驚きだ。
不法入国は犯罪かもしれないが、本国に強制送還すると、生命の危険がある場合は、難民として保護する必要があるというのがタテマエだ。
確かに、偽装難民はいるとは思うが、時間が経過してしまうと、子供は日本で学校に通い、日本で成長し、日本で就職しなければならなくなる。親も本国での生活の基盤が無くなっていくことは容易に想像がつく。
在留資格がないまま、日本で生活させるのであれば、子供だけでも、ビザを与えるなり、対策は必要だ。
要は難民として受け入れることはないが、強制送還して問題になると困るので、自主的に出国するのを待っていると言うことだろう。
移民政策も含め、日本の外国人受け入れは、とても閉鎖的だ。これは、国を閉ざしているとも言えるが、誰も責任を取りたくないために、判断をしないということだと思う。
このようなぬるま湯に浸かり、日本は三十年もの月日を失ってしまった。
クルドから来て日本に住んでいる人達は、1500人程度らしい。彼らが、本国で生命の危険にさらされていたとすると、誰かが助けてあげなくてはいけない。
日本は経済成長していなくとも、経済大国であることに変わりはない。
国際社会で何もすることができない日本は、このまま二流国家へと衰退していくのか。このドキュメンタリーは、誰も責任を取れない日本という国の行末を暗示しているようにも見える。
飼いならされた人達の群れは、どこに進もうとしているのか。流されるまま、流される方向へと進んでいくだけなのかもしれない…。
難民申請を続け、入管の収容を一旦解除される仮放免許可書を持つが、身分は不法滞在者の扱いで、いつ収容されるかわからず、住民票もなく、自由に移動することも働くこともできない人達。ラマザンの叔父メメットが体調不良で救急車家族が呼んだが入管から2度にわたり拒否され、メメットが病院に搬送されたのは30時間後という非人道的な事件が起きた。2人のクルド青年の日常から、救いを求め懸命に生きようとする難民、移民に対する国や人々の在り方を問う作品。
これ、日本に住んでいる日本人では理解できないかもしれないって感じた。もし、自分が祖国に居たら殺される状況で、他国に逃げる時に日本を選んだ事の悲劇なのかな?日本政府の入管が言った「よその国に行ってよ」が心に重くのしかかっている。
日本って日本国籍の人だけが良ければいいのか?祖国に帰りたくても帰れない人達に対しなんとかならないのか?入国管理の改革は?など、色々と考えさせられる重いテーマのドキュメンタリー作品だった。
入管改正を国会審議しているようだが、少なくとも国会議員全員にこの作品を観賞してもらい、議論の内容を深めて欲しいと願います。
多くの人、は難民のことをつい最近日本に逃れてきた人々のことだと思うかもしれない。もちろん、最近になって日本にやってきた人もいるが、日本の入管が国外に追い出そうとしているのは、何もそういう人たちばかりではない。幼い頃に家族とともに母国での迫害を逃れるために日本にやってきて、幼少期から青年期までこの地で過ごして、文化的にも生活の基盤も日本にあるような人々をも追い出そうとしているのである。
本作の2人の主人公はまさにそういう人だ。難民申請を続け、仮放免許可書を持つが、それはこの国で働けるわけではなく、ただ「いるだけ」の状態に留め置かれている。日本で育った彼らに対して、入館職員が「帰ればいいんだよ。他の国行ってよ」と吐き捨てるように言う。多感な時期を日本で過ごして日本に染まった人に対して、どこに帰れというのか。
そんな状況に1人は絶望し、1人はまだ希望を捨てずに進学の夢を追いかける。2人はすでにこの国で生活する僕らの仲間ではないのか。仲間を見捨てるような国にしてはいけないのだと強く思う。
しかし、少しでも難民の資格のある人を強制送還することは、人道上許されることではないし、日本においても「難民条約」が発効してから、既に40年ほど経つようだ。
そして、まさにこの映画のテーマであるが、難民も生きていくために、難民申請中に“働かざるを得ない”ことは、当たり前の現実である。
2010年から2018年まで、「難民申請から6ヶ月経つと、就労できる在留資格が一律で得られる」制度を悪用する“偽装難民”が多かったのかもしれない。だとすれば、就労を禁じる法務省の方針も理由は分かるのだ。
しかし、“本当の難民”のことを考慮すれば、あってはならない制度設計である。
この映画の一番価値のある点は、「では具体的に、難民ってどういう人たちなの?」という疑問を、2015年から始まる取材で、映像として見せてくれたことだと思う。
一つのケーススタディに過ぎないとはいえ、オザンとラマザンという2人の若者を扱っているだけでなく、その周辺の家族・親族のことも映されているので、情報量は多い。
この2人は、日本で子供の頃から義務教育を受けており、日本語会話は完璧で、「難民」を代表しているとは必ずしも言えない。
しかし、そんな“半分日本人”の2人でも、「必要とされていない。自分は虫よりも価値が低い」(オザン)という、絶望的な閉塞感を抱かざるを得ない現実を映し出す。
一般の難民に対してなら、シンパシーを持たない日本人であっても、幼少期から日本で育った難民が、まともな扱いを受けないのを見れば、心情的に苦しくなるだろう。
その意味で本作は、訴求力の強いテーマを扱っていると言える。
後半には、オザンと「入管」とのやりとりの音声の“隠し録り”という、衝撃の映像が出てくる。
終映後のトークによると、監督はオザンおよびその両親に、何度も同意を得ているという。
法務省がどういう対応するかは分からないが、オザンにとって不利益よりも、利益の方が大きいと監督は判断したそうだ。
オザンとしても、どのみち事態が好転しないのだから同じだという、あきらめがあるのかもしれない。
よく理解できなかったのは、「ビザ」の話だ。
「特定活動ビザ」の保有者は、要件を満たす場合、難民であっても「就労ビザ」への在留資格変更申請が可能らしい。
映画には映されていないが、通訳をあきらめて、「埼玉自動車大学校」を卒業したラマザンは、何らかの「ビザ」がおりて、現在就職活動中とのことである。
抜本的な解決ではないが、“本当の難民”に対する、当然の措置であろう。
2人の就職問題だけではなく、本作品は、一般的な「入管行政」の問題点にも、きちんと尺を割いている。
期限を定めない「拘禁」や、適切な「医療からの遮断」、長期にわたる「仮放免」というあいまいな措置の継続は、日本の難民認定率の低さと並んで、人道上の大問題だ。
2007年から、「入管」施設において17人の死者を出し、うち5人が自殺であったという。
また、数ヶ月に1回の入管への出頭は、失踪を把握するためにやむを得ない措置だと思うが、そのやり方は犯罪者でもないのに、きわめて屈辱的だ。
「入管」による、制度の非人道的で恣意的な運用は、許されることではない。
密着取材による難民問題の一つの事例を中心に据えながらも、それだけでなく、「入管行政」の問題点まで、広く網羅する本作品は、タイムリーな素晴らしいドキュメンタリーである。