「アリー
スター誕生」で監督としても高く評価された俳優ブラッドリー・クーパーの長編監督第2作で、「ウエスト・サイド物語」の音楽などで知られる世界的指揮者・作曲家レナード・バーンスタインと女優・ピアニストのフェリシア・モンテアレグレ・コーン・バーンスタインがともに歩んだ激動の人生と情熱的な愛の物語を、バーンスタインの雄大で美しい音楽とともに描いた伝記ドラマ。クーパーがレナードの若き日々から老年期までを自ら演じ、「プロミシング・ヤング・ウーマン」のキャリー・マリガンがフェリシア役を務める。共演はドラマ「ホワイトカラー」のマット・ボマー、ドラマ「ストレンジャー・シングス
未知の世界」のマヤ・ホーク。クーパー監督と「スポットライト
世紀のスクープ」のジョシュ・シンガーが脚本を手がけ、製作にはマーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグが名を連ねる。2023年・第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。Netflixで2023年12月20日から配信。それに先立ち12月8日から一部劇場で公開。
マエストロ その音楽と愛と評論(20)
ドキュメンタリータッチの佳作と思いきや、
スピルバーグやスコセッシがプロジューサーに名を連ねる
ハリウッド超大作でした。
監督・主演のブラットリー・クーパーは、ありとあらゆる
レニーの写真・映像を研究しており、各シーンは、Lifeや
Magnamのカメラマンが撮影した写真から飛び出したようで
アメリカ写真・映画芸術の王道を踏襲したものでした。
(ちょっと古臭い感じするかも)
白黒の前半部分は、古き良きハリウッド映画の夫婦愛を
彷彿させる。(ジューン・アリソンとジミー・スチュアート
が出てきそうだ?)
しかし、カラーの後半部分は、自由奔放(自堕落?)な生活を
謳歌するレニーと家庭を守ろうとするフェリシアに亀裂が
生じる。
とてつもない才能に、魅了され、時には戸惑った、比類
ない人生を送った夫婦の愛情物語なんだろう。
レニー役のブラットリー・クーパーは、ルックスをかなり
研究しているが、クライマックスのLPOと「復活」を
振るシーンの指揮は、実際のバーンスタインの演奏に接した
ものにとっては、正直、ヘタクソである!!!
フェリシア役のキャリー・マリガンは申し分ない立派
演技である。でもチリ人だからスペインなまりじゃないの
フェリシアは・・・
フェリシアの看病のために、コンサートをキャンセルされた
ものより
マリガンは、セリフではないところの演技がサイコー。久ビシにマリガンが見られて良かった。台詞がよく、台詞が自分たちや互いの関係を隠喩してるのもよかった。
こんなに愛し合ってても、彼は男が必要だったのか。そして自己中心性。
内容については予備知識を入れてなかったのですが、恐らく二人の素敵な出会いと、結婚後は作曲や指揮に苦労する夫を支える妻みたいな、心温まるストーリーを想像していたのですが全く違いました。あまりのつまらなさに内容をよく覚えていないのですが、終始人がごちゃごちゃいて騒がしく、どうでもいい会話を延々とと聞かされ続ける拷問のような内容の作品でした。
肝心のバーンスタインのことはあまりよく知らないで観た私も悪いのですが、妻がいながらも目の前で他の男に手を出すような人物で、観ていて気分が悪くなってしまい、本作を選んでしまったことをとても後悔しました。
何でこんな映画を作ったのでしょうか?本作を観たおかげで映画もクラッシック音楽も嫌いになりました。
それから、ストーリーとは関係ないですが、いくら役作りだとしても、夫婦揃ってタバコ吸い過ぎ。子供の前だろうがリハーサル中だろが、ところ構わず、ほぼ必ずと言っていいほどタバコを吸っているので、気になって仕方なかったのと同時にとても不快でした。
実際、彼がマーラーの交響曲第2番を指揮する場面や、学生に指揮法を教える場面からは、「指揮者」としての彼の卓越した才能をうかがい知ることができる。
その一方で、彼の音楽は劇中でふんだんに流れるものの、彼が優れた「作曲家」であるということを実感できるようなエピソードはほとんど描かれない。
インタビューの場面などから、創作に関するバーンスタインの考え方の一端は理解できるのだが、彼が音楽史にどのような功績を残したのか、何が彼を偉大な音楽家たらしめたのかといったことが、今一つよく分からないのである。
男女を問わず「人間が好き」ということは、確かに、彼の創作活動の原点になっているのかもしれないが、それだけが、彼の才能の源泉であるとも思えない。
そうした、音楽家としてのバーンスタインに焦点を当てる代わりに、この映画が描こうとしているのは、バーンスタインと彼の妻の物語である。
ただし、その夫婦の物語にしても、決して波瀾万丈でドラマチックなものではなく、むしろ、ラブ・ストーリーとしては平凡かつ平板で、はっきり言って退屈でつまらない。
バーンスタインの妻が、夫の浮気に愛想を尽かしながらもヨリを戻すくだりは、いくら彼の音楽に感動したからといっても説得力がないし、病に倒れた彼女をバーンスタインが献身的に看病する様子にしても、2人の深い絆が感じられる訳ではない。
寝室を出て廊下を抜けたら劇場だったり、屋外から家の中に入ったら劇場だったりといった、いかにも映画的な驚きが感じられるシーンがあるのも序盤だけだし、スタンダードサイズの白黒画面、スタンダードサイズのカラー画面、ビスタサイズのカラー画面の3種類の画面も、描かれる年代を表す手段としては面白いものの、それ以上の効果を上げているとは思えない。
そもそも、ブラッドリー・クーパーが、どうしてレナード・バーンスタインを題材として取り上げたのか、彼の人生を通して何を描きたかったのかが、最後まで分からなかった。
すげえな。少し「目」の感じは違うけど、ほとんどそのまんまじゃないか。
特に、老齢になってからのインタビューの様子や、タングルウッドでのレクチャーの様子のクリソツぶりは、尋常じゃない。
特殊メイクやCGにどれくらい助けられてるかは知らないけど、これだけ動きや表情、しぐさを完コピするためにはどれくらいの準備が成されたことか。
特に、声。レニーの声はとても特徴的で、若いころは張りのある美声なのだが、やがてタバコの吸い過ぎもあってだんだんとしゃがれてゆく。そのあたりの「声音の変化」が本当に年代ごとにトレースされているのだ。人間、ここまで声帯模写って完璧にできるもんなんだな。
ここでの感想を見ていると、けっこう賛否両論といった感じだったので、正直おっかなびっくりで観に行った感じだったが、もうレニーそのままといっていいメイクと動きの再現性に完全にノックアウトされて、個人的にはそれだけでも大変面白く観ることができた。
演奏シーンらしい演奏シーンは、中盤以降にカテドラルでのマーラー交響曲第2番「復活」のオーラスがあるくらいだが、これまたクーパーの熱演ぶりがヤバい。
元ネタになっているのは、1973年にエジンバラのイーリー大聖堂で録音&録画されたロンドン響との「復活」なのだが(今回も同じ場所、同じオケで再現している)、実際には完コピでは全然なくて、かなり動きも興奮ぶりも誇張されている。実際のレニーは、本番ではどんなにエキサイトして乱れても、指揮棒の打点が見にくくなるほど身体の中心線を動かしたりはしなかったし、よく見ると意外にかっちり振っている指揮者だった。どちらかというと、これはリハでオケを鼓舞しているときの振りぶりに近いかもしれない。振り癖自体、レニーというよりは、指揮指導にあたったヤニック・ネゼ・セガン(エンドクレジットで名前が出てきて、おおお、そう来たかと)の影響が強く出ているような気もする。
だが、娯楽映画である本作においては、そのへんはたいして重要ではない。重要なのは、レニーの「精神」の再現性なのだ。
レニーは常々、マーラーを振る時は「全身全霊を注がなければ表現できない」「指揮者もまたこの一曲ですべてを出し尽くすぐらいボロボロになって向き合う必要がある」と言い続けていた。「汗だくになって、頭痛と吐き気に苦しめられ、みんなに頭がおかしいと思われながら、それでもすべてを振りしぼって、自分はマーラーの『極端さ』と向き合うんだ」と。
ここでのブラッドリー・クーパーからは、そんなレニーのマーラーと向き合う際の陶酔と共感と狂気が確かに感じられた。だから、やはり僕は名シーンだと思うのだ。
僕は必ずしもレニーの善きファンではない。
とにもかくにも彼のマーラーは大好きなので、旧全集、DVD全集、新全集はすべて持っているし、その他のライブも手に入るものは揃えている。
ときに泣きたくなると、僕はいつも、レニーのマーラー交響曲9番終楽章のリハーサル映像を観て涙する。
ただそれ以外だと、しょっちゅう聴くのはシューマンの全集とショスタコーヴィチ、アイヴズくらいで、自作自演のCDも通俗曲しか持っていない。
レニーの自作曲で生演奏となると、「シンフォニック・ダンス」と「キャンディード序曲」を除けば、交響曲の2番「不安の時代」を井上/新日フィル、3番「カディッシュ」をインバル/都響で聴いたことがあるくらいか。あと、パーヴォ/N響の「ウエストサイド・ストーリー」演奏会とか。
なので、今回の映画でも、流れてなんの曲か分かったのは上記の曲くらいで、最初と最後で流れるピアノ曲(サントラの楽曲リストをネットで確認する限り、歌劇『静かな場所』の「ポストリュード」のようだ)の旋律など、知っているとまた映画の感興もだいぶ変わっていたのかもしれない。
とはいえ、(「マンフレッド」とマーラーの2番とアダージェットとベートーヴェンの8番以外は)全曲バーンスタイン自身の作曲した音楽でBGMを埋めてみせたのは、素晴らしい英断だったと思う。
レニーは晩年まで、本当は何よりも「クラシック音楽の作曲家」として世間に認められたいと希求しつづけた音楽家であり、殺人的なスケジュールで指揮活動や教育活動をこなしながらも、常に新しい楽曲を書こうともだえ苦しんだ人だった。さっき言及した『静かな場所』の曲にしても「ピアノで弾いたほうがいい曲に聴こえる」みたいな台詞があったかと思うが、レニーはいつも自作曲が世間であまり評判にならないことを気に病み、精神的に追い詰められていた。それを考えると、自分の伝記映画で、結構マニアックな曲まで含む自作曲の数々がひっきりなしに流れることを、天国のレニーは本気で喜んでいると思う。
少なくとも予告編を見る限り、全編でマーラーSym5のアダージェットが流れる、吐き気のするようなべろべろの恋愛劇に仕上がっている可能性もあったわけで、そういう下劣で気持ちの悪いお涙頂戴のBGMなどにはなっていなくて、本当によかった。
(ちなみに、あのアダージェットは、指揮者メンゲルベルクの証言にもあるとおり、マーラーが妻のアルマに宛てて作曲した音のラブレターだったともっぱら言われているので、愛の交歓のシーンで流れるのには、ちゃんと意味があるといえる。)
連弾シーンのピアノの弾きぶりを見ると、ブラッドリー・クーパー自身、もともと音楽的な素養は結構ある人のように思う。彼はおそらく本当にバーンスタインの音楽が大好きなのではないか。
映画としては、基本フェリシアとの愛の軌跡を描くことに傾注していて、当時の音楽業界ネタなどはあまり出てこない。ただ、冒頭でワルターが病気で代演が回って来るとか(1943年に起きた実話)、ボストンでクーセヴィツキーに改名を薦められるとか、NYPOの前任者としてロジンスキの名前が出て来るとかのビッグ・ネーム絡みのくすぐりは楽しかった。どうせなら彼に同性愛を仕込んだとされるドミトリー・ミトロプーロス(彼こそはバルビローリと並んで僕が最も敬愛する指揮者だ)も出してほしかったなあ。
あと、おつきで可愛がられてたOとかSとかの日本人指揮者が見当たらなかったのは残念至極。これだけレニーの性癖に踏み込んでおきながら、マイケル・ティルソン・トーマスも出てこなかったよね? 『TAR』や『ふたりのマエストロ』とちがって、存命の現役指揮者に関しては、醜聞めいた危ないネタはやらないという道義的な配慮なんだろうな。
あと、タングルウッドでのレニーの公開講座を入れこんで来るなら、「ヤング・ピープルズ・コンサート」(『TAR』で幼いターが拠り所にしていた、レニー司会&演奏によるクラシック教育番組)にもがっつり尺を取ってほしかったような。
ちなみに、レニーの同性愛の性癖とヘヴィースモーカーぶり(&コカイン愛好)は、彼を語るうえではどうしても避けて通れないネタである。
ただ、ここまでがっつり、この手のネタが苦手な観客に対する嫌がらせか当てつけみたいに、あらゆるところに入れまくって来たのには、ある意味感心した(笑)。
レニーは『芸術家ってものはホミンテルン(ホモ+共産主義者)じゃないとな』とうそぶいて、奥さんの前でも公然と若い男の子のケツを追いかけまわしていた人物で、今回の映画ではそこから目をそらさずに、独特のレニーとフェリシアの関係を描き出している。
レナード・バーンスタインは、万人から愛され、また万人を愛してやまない、特殊に人懐っこくて極端にさみしがり屋のスーパースターだ。その妻であるフェリシアは「正妻」としての最も近しい立ち位置をゲットしているわけだが、その立場に「満足している」ふり、「広い心でレニーの乱行を赦している」ふりをし続けることに、だんだん疲弊してゆく。やがて彼女は感情を爆発させるのだが、だからと言ってレニーの不在には耐えられない。
3人のお子さん曰く、レニーとフェリシアが子供たちの前で喧嘩したことは一度たりともなかったそうだが、本作では子供たちの「いないところ」でふたりが日頃の鬱屈をぶつけ合う渾身のシーンがある。そこでフェリシアは、異常なまでのバイタリティと豊かな感情を発散させて、まわりのエナジーをドレインして疲弊させてゆく天才レニーの在り方を、舌鋒鋭く看破してみせる。あのあたりの「圧倒的に過活動で魅力的な人物」が回りのパンピーの精神を「毒していく」メカニズムに対する洞察は、非常に共感できるところがあってとても面白かった。
ここで忘れてはならないのは、ブラッドリー・クーパーが映画監督として撮った第一作『アリー スター誕生』でも、本作と「似たようなテーマ」が扱われているという事実だ。
大スターとの恋愛。幸せな日々。だが二人の関係にはいつしかヒビが入る。
芸術的才能に満ちあふれた夫婦が、水面下でせめぎ合う。
より才能が巨大なほうに、もう片方が引っ張られる。
人間的魅力を無尽蔵にまき散らす相手を前に、次第に疲弊し消耗していくパートナー。
逃避と依存の対象としての「酒」「タバコ」「ドラッグ」。
相手を心から愛していても、相手の輝きのまぶしさゆえに自尊心はえぐられ、心は闇に閉ざされてゆく。そのつもりはなくても相手を傷つけ、自分を傷つけてしまう。
……と、割り振りにはいろいろ違いもあるが、二作品の扱っている題材や描こうとしていることは、驚くほどに似通っているといっていい。
要するに、ブラッドリー・クーパーにとっては、こういった才能ある者どうしの「マウント合戦」のなかで展開する「恋愛」こそが、切実に追求すべき重大なモチーフなのであり、圧倒的な才能を前にした時の人間の心の揺れや崇敬、愛慕、劣等感といった正負の感情と「愛」の関わり合いこそが、描きたいことの中核なのだ。
宣伝でさんざん「愛の物語」とか煽っておきながら、奥さんそっちのけで男色にふけるレニーを見せられると、たしかに「おいおい」と突っ込みたくもなるが、この映画が『アリー スター誕生』の「変奏曲」の一種だと考えれば、ずいぶんと見方も変わるかもしれない。
本作は、『スター誕生』において描かれた、愛嬌と魅力はあっても欲望に忠実でアルコール依存に苦しむダメな男と、しっかり者で相手への思いやりに満ちた気丈な女の対比を、実在の人物を題材として、「圧倒的才能」のありかを妻から夫にすげ替えた形で、あらためて描き直してみせた物語なのだ。
もう一点だけ付け加えておくと、本作はたしかに「恋愛映画」であり「音楽家とその妻の伝記映画」(ちょうどリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』のような)でもあるわけだが、それと同時に「ユダヤ系のヒーローを描く映画」でもあることを見逃してはならない。
公開前から、この映画をめぐっては一波乱があった。ユダヤ系の俳優陣がブラッドリー・クーパーのつけた「付け鼻」を、ユダヤ人の身体的特徴をステロタイプに表現した「ブラックフェイス」に近いものだとして糾弾したのだ。レニーの三人の子どもたちは「パパが偉大な鼻の持ち主だったことは本当だもの」と徹底してクーパー擁護に回ったようだが、逆を返せばユダヤ人俳優たちは、この映画が「ユダヤのための映画」であり、レニーは「ユダヤ系が演じるべき人物」だと最初から考えていたということだ。
映画に名前の出てくるブルーノ・ワルターやクーセヴィツキーもユダヤ系だし、何よりレニーとフェリシアの二人が心を通わせる遊びが「数当て」というのが、いかにもカバラの数秘術を思わせて興味深い。
ハマスによるイスラエル襲撃の際も、ブラッドリー・クーパーはいち早く、イスラエル人のガル・ガドットやユダヤ系のエイミー・シューマーが中心となってバイデン大統領へ提出したハマス糾弾&人質解放を促す共同書簡に参加している。本作が「親ユダヤ的」なスタンスで作られた映画であることは間違いない。
現在、ガザ侵攻を受けてアンチ・シオニズム運動が改めて勃興しつつあるただ中で、世界で最も有名なユダヤ系音楽家の生涯の軌跡を追うというのも、なかなかに意義深いことかもしれない。