1969年から現代にタイムスリップした女性の成長を描いたベトナム映画。1969年のサイゴンで、9代続いた伝統あるアオザイ仕立て屋の娘ニュイ。ミス・サイゴンに選ばれるほどの美貌の持ち主でスタイルもファッションセンスも抜群の彼女は、家業であるアオザイを野暮ったいと嫌い、アオザイを仕立てる母親と対立していた。そんなニュイがなぜか21世紀にタイムスリップしてしまう。そこで出会ったのは48年後の落ちぶれた自分の姿だった。ニュイは自分の人生の変えるため、ベトナムのトップデザイナーのもとで働くことになるが……。製作総指揮をベロニカ・グゥ名義で「スター・ウォーズ
最後のジェダイ」にも出演し、ベトナムではファッションリーダーとして人気を集めるゴー・タイン・バンが務める。ベトナム映画祭2018や第13回大阪アジアン映画祭などでは「仕立て屋
サイゴンを生きる」のタイトルで上映された。
サイゴン・クチュール評論(6)
当時の最新ファッションに明るくアオザイを嫌う主人公が自宅で翡翠の装飾ががついたアオザイを着てタイムスリップ。2017の自分に会い、落ちぶれた家業と自身を変えるべく動き始めるストーリー。
ストーリーもリアクションも一昔前の映画の様な古臭さで、タイムスリップ後のパニックっぷりなんか可愛らしいどころか鬱陶しい程。
しかしながら家族を思い人を思い自分の出来ることをみつけ成長、活躍していく姿は力強くて愉しくて中々面白かった。
イメージしていた以上にアオザイがファッショナブルでそれも面白かった。
「アオザイ」とは、ベトナム風チャイナドレスなのか。
身体のラインがくっきりして、セクシーな衣装である。
これが正装というのだから、“たしなみ”に対する日本との感覚の違いに驚く。かの暑い国では、こういう“色気”もナチュラルなのか。
このアオザイを身体にぴったり合うように作るためには、なるほど、仕立てをしっかり勉強しなければならないだろうし、“秘伝”が必要かもしれないと納得したのである。
ファッションにおいて、当世風のアレンジによって、様式がリバイバルすることは普通のことだろう。
しかし、2017年の売れっ子のヘレンは、「1960年代“風”」のデザインすら満足に思いつかない中で、クライアントから仕事を引き受ける。
ヘレンは、あの手この手の上っ面だけのデザインで、次々と流行を作りだして商売している軽薄なモード業界の象徴として、皮肉られているのかもしれない。
一方、ニュイは、時間移動することで、“本物の”1960年代のモードを、2017年に持ち込む。
さらに、母の“秘伝書”によって、“本物の”アオザイの仕立てを身につける。
そして、「伝統のアオザイ」・「1960年代」・「2017年」の、すべて“本物”の間で化学反応を起こしてヘレンに勝利するのだ。
アオザイに、“(ネオンのような?)錯覚を起こすような幾何学柄”を入れるという斬新なデザインで。
「タイムスリップ」とはベタな話だが、そのことで“理想のクチュリエール”になれたという、面白い物語だと思う。
また、ファッションというビジュアルだけでなく、流れるレトロな感じのポピュラー音楽も、なかなか楽しかった。
ただ、固有名詞が分かりづらいのには参った。台詞がどうであれ、字幕上の呼称は工夫すべきだ。
若い「ニュイ」と48年後の「アン・カイン」は同一人物だし、「タン・ヌー」は店の名前で、名人「タン・ロアン」は母の弟子、おそらく「ヘレン」と「トアン」は姉弟でロアンの子供だ。
なお、この映画は1969年の“サイゴン”が一つの舞台であるが、ベトナム戦争の真っ只中なのに、その雰囲気さえ感じられないのは、意図的だと思うが、不思議な感じだ。
「サイゴン“陥落”」は1975年だから、ニュイが“ヨーロッパかぶれ”に振る舞っているのは、郷愁を誘う姿なのかもしれない。
登場人物には少し意地悪な人も居ますが、基本的には皆善人。悪い人は一人も出て来ません。
前半ではお高く止まっていただけの主人公が、逆境に負けずに這い上がり、未来の自分?!に向き合い葛藤し、乗り越え・受け入れ、そうして、亡き母のアオザイに対する思いに気付き・受け継ぐ、その思いには共感して胸が熱くなりました。
新しい事物を取り込み変わって行かなければいけない部分と、変わらず受け継いでいかなければいけない心と文化。どのお国にも共通する普遍的な理念の様なものも感じました。
最後の最後「ウララ~」のオマケシーンは、蛇足で不要。カメラワーク等は未だ未だ。母親役の女性が若過ぎるのが不自然過ぎて、ミスキャストです。
後、他のレビュアーの方も書いて居られますが、1969年のシーンにベトナム戦争の影響が一言も有りません。もしかすると、作者の意図的な思いも有ったのかなあ…とも感じました。
それから、上映劇場さんにも一言。
当サイトの上映時間より10分遅らせた上に、予告編15分って…大汗掻きながら時間通りに入館した身から言うと、「何なのヨ!」とかっていうのは感じました。
1969年のサイゴンから始まる物語は、ヨーロッパやアメリカの消費文化が華やかに咲き乱れ、伝統的なものの影は薄くなるばかりのようだ。洋服のデザイナーとして、またその美貌によって我が世の春を謳歌する娘と、アオザイの伝統を背負う母親の対立が描かれる。
その直後の対米戦争や共産主義革命の歴史を知る観客の脳裏には、ベトナムの伝統も西欧の新しい文化も、どちらもが押し流されていく運命が浮かぶだろう。
2017年にタイムスリップした娘は、没落した家業と、荒んだ生活を送る将来の我が身を知ることになる。映画はこの悲劇の原因を、娘が母親からアオザイの仕立て方を習わなかったことによると語る。
しかし、この間のベトナムという国や社会の苦難を思い出さない観客などいるだろうか。
内戦は社会を引き裂き、対米戦争では多くの生命が失われ、過度の社会主義政策は国民経済を停滞させた。
このような中で多くの伝統が失われ、美しい自然が破壊され、社会の紐帯に傷がついたであろう。その結果、いくつもの古い文化が消え、それに携わった人々の運命を変えていっただろう。
映画は直接そのことに触れてはいない。家族がその絆を取り戻し、ビジネス優先から思いやりや信頼を大切にするラストは、暗い過去などなかったかのように、明るく希望に満ちたものである。このことがなおさらこの国の人々の心に、困難な日々を思い起こさせるのではないだろうか。
老舗の仕立て屋はベトナムという国家を暗喩し、それを一度は潰し、いままた、現代のファッションビジネスの流れに乗せて復活させた主人公は、ベトナムの人びとそのものであろう。
「怪しい彼女」と「プラダを着た悪魔」を足して二で割ったような映画のポップな表層とは別に、観客に一つの社会を回顧させることのできる、深層をこの作品は持っている。
限られた数の作品しか鑑賞できないが、今回のベトナム映画祭は、他の作品にも期待が持てる。上映館には、今回だけに終わらせず、台湾巨匠傑作選のように恒例イベントにしてほしい。
60年代のファッションで、まるでミュージカルの様に軽快に音楽にのせて進むので、見ていて楽しい。
これはまさに、ベトナム版プラダを着た悪魔の様です。それだけではなく、油断してるとホロりと泣かせるとこもあるし、本当に大好きな映画になりました。
これは当たりです。
もう一回見たい‼️
でも、タイトルだけではピンとこないなって思ってしまいました。
もっと真面目な映画なのかと勘違いしてしまった。