名匠ロベール・ブレッソンが傑作「バルタザールどこへ行く」の直後に手がけた長編8作目。フランスの作家ジョルジュ・ベルナノスの小説を原作に、ひとりの少女のたどる悲しい運命を、厳格なフレーミングと俳優たちの最小限に抑制された演技により、ストイックかつリアルに、まざまざと描いた。フランスの片田舎に暮らす14歳のムシェットは、アルコール中毒の父親と病気の母親に代わって家を切り盛りさせられている上に、学校では同級生や教師から酷い扱いを受けていた。そんな薄幸の少女の運命は、ある雨の夜、森の中で密猟者と出会ったことをきっかけに、さらなる悲惨な破滅へと向かって転がり落ちていく。絶望の淵に立たされながらも反抗心を秘めた主人公ムシェットを、本作のために抜てきされたナディーヌ・ノルティエが演じた。1967年製作で、日本では74年にエキプ・ド・シネマ配給で初公開。95年にはフランス映画社配給で公開。2020年10月には、4Kリストア・デジタルリマスター版でリバイバル公開。
少女ムシェット評論(2)
"What will become of them without me? I can feel it in my breast. It's
like a stone inside."
簡素なオープニング・クレジットも終わり、悲しそうで哀れむような眼差しで、ムシェットの母親が言葉を残して直ぐに立ち去って行く。本編では考えられないほどの冷たく暗い、しかも美しい表情で... この言葉の意味するところが、この映画の全体像を指し示している... その行き着く先に... ?
この簡単なワンショットが何故重要に思えるのか? 彼、監督のロベール・ブレッソンが、こんな言葉を残している。「私にとって、登場人物の順序と位置、そしてショットの構成がが映画の本質となっている。ただ撮られただけであらわになった単純で劇的な動きよりもはるかに重要視している。映画では重要なのは構成であり、それは優先されなければならない」と、また「上辺だけの外見でなくて、本来そのものが持っている存在感を重視している。」
"見える"よりも"存在"に興味を持ち、彼は"models"と呼ばれる非プロの俳優を好んだとされ、そして彼は、パフォーマーから精神的活動の兆候を取り除くために努力しているとも言われている。(LISA THATCHERより)
Have faith in hope; three days, Columbus told them... pointing to
the vast heavens on the horizon. Three days, and I shall give you
a world... you who have no hope. His eyes opened to see it... in
the empty vastness
合唱シーケンス: この詩とは裏腹に音楽の授業での見せしめ... いじめ あっけにとられて、ふと言葉も出ないことに気づく。 学生時代の授業での色々あったトラウマを思い出して...
ロベール・ブレッソン監督の映画は、"難しい"って? 映像的にしっかりとしたと言うか、厳格なブラックアンドホワイトの映像と共に遅いペースのシナリオの展開があり、映画のショットでは顔ではなく足に焦点を合わせて度々映される特徴がある。しかも、フィルムスコアは別取りで録音され、彼女の履く足のサイズが合っていない靴の足音がコツコツと鳴り響く音も強調もされている... 子供の成長に合わせて買い替えるのではなくて、いつかは大きくなると靴が合ってくるナオザリなひとつの貧しさの象徴であり、クラスメイトからバカにされ、あざける為の冷笑の対象となっている。 それよりも重要なのは... 以前見る機会のあった、商業映画からの引退を公言したツァイ・ミンリャン監督のドキュメンタリー映画「あなたの顔」であったり、モダンダンスのルーツの人の演目 "Mother" の復活に関わる女性を描いた映画「イサドラの子どもたち」などのように完成度を求めて、外見の趣向を凝らすのを嫌い、むしろすべてをできるだけ簡略化する表現スタイルであり、また、近年、若者のごく一部に見られる過美なライフスタイルを捨てて、超がつくほど単純な生活を送っている人もいる生活のワズワラしさからの開放的スタイル: "最小限主義" とも呼ばれるミニマリズム。 それを取り入れている二人の監督をさらに超えたようなブレッソン監督の場合は、それに非プロの俳優さんが演じているナチュラルステックなこともあり、見ている側としては、会話も少なく、人物の背景やシナリオの流れもつかめず、本作のラストの何とも言えない締めくくり方に納得も出来ずに終わってしまう。 そんなこんなで、この監督の映画としっかりと向き合えるかどうかで面白みも変わってくる。
田舎、サン=ヴナンに住む14才の少女の惨めな存在に焦点を当てている映画「ムシェット」は確かに彼女ムシェットは嫌なクラスメイトに陰から泥を投げつけても、普通なら投げられた方としたらムシェットに対して悪態も吐くのは当然と思えるけれども、この映画ではオモムキが違う。彼女たちは何も言わずに立ち去り、ムシェットの存在がないような完全に無視をしたような態度をとっている。確かに彼女は陰気なキャラクターに描かれ、その惨めなぼろぎれのような服装や誰彼構わず、人をにらみつける顔つきなど不幸そのものに描いているが... その反面、家族に対して、立派に尽くし、愛情も感じられるが... 悲惨と残酷さをこれまで過酷に描くには、アウトラインにイエス・キリストの受難から復活までを描いた"十字架の道行き"を投影していると思われる。というのもこの映画は、カンヌ映画祭の第20回カンヌ国際映画祭(シネマや視聴覚のための国際カトリック機関)OCIC賞を受賞しているところから(OCIC賞は、現在はなくなっている。)
ラストのムシェットの行動を悲劇と捉えるのか、キリストの復活と同じようにハッピーエンド?と捉えられるのかは、見ている側にゆだねられているのかもしれない。ただクラウディオ・モンテヴェルディが作曲した聖歌がラストシーンに用いられている。
1967年の映画... フランスでは、第一次インドシナ戦争で7万5000人の戦死者を出し、その過去から、それをモチーフにした映画が作られたのは当然の事として、この映画もムシェットの立場を変化させると戦争の悲惨さも表しているのではないかと捉えている方も少なくはない。
ジャン=リュック・ゴダールは、この映画を劇場プレビュー用として撮影している。その時彼は、「キリスト教的でサディスティックである」と説明しており、それはほぼ正しいようだと...
最終的に苦しみから解放されたとき、彼らは精神的な純粋さを達成する事が出来ているのか理解できるかが、この映画を受け入れられるか、判断できるものとなっている。
映画の冒頭のムシェットの母親の言葉は、監督の説明の通りとは少し意味合いが違うかもしれないけれども彼女はすでにこの世ではなく、ムシェットとまだ乳飲み子の息子を思うこころを具現化した姿となっている。
My movie is born first in my head, dies on paper, is resuscitated by
the living persons and real objects I use, which are killed on film but,
placed in a certain order and projected on to a screen, come to life
again like flowers in water. ...なんて監督さんは仰っています。