旧ソ連出身のビターリー・カネフスキー監督が自身の少年時代の記憶をもとに、収容所地帯の町で暮らす少年少女の過酷な運命を鮮烈かつ叙情あふれるタッチで描き、当時54歳にして第43回カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞した青春ドラマ。第2次世界大戦直後のソ連。強制収容所地帯となった小さな炭鉱町スーチャンで暮らす12歳の少年ワレルカは、シングルマザーの母親への反抗心から悪戯を繰り返していた。同じ年の少女ガリーヤはいつもワレルカのことを気にかけており、彼が窮地に立たされると守護天使のように現われて助けてくれる。そんなある日、度を越した悪戯で機関車を転覆させてしまったワレルカは、逮捕を恐れて1人で町を飛び出す。2017年、世界の名作を上映する企画「the アートシアター」の第2弾作品としてリバイバル公開。
動くな、死ね、甦れ!評論(10)
『大人は判ってくれない』『小さな恋のメロディ』を超える傑作
らしい
だが僕とカンヌは相性が良くない
そして子供中心の映画はあまり好きじゃない
アートシアター
たしかに芸術映画であって娯楽映画ではない
たとえどんなにくだらなくても娯楽映画の方が好きだ
生意気でいけすかない主人公も手伝ってこの作品は好きになれない
ロシアという国そのものが北朝鮮以上に嫌いというのもいくらか影響しているかもしれない
タイトルのインパクトはすごい
小説でいうなら『世界の中心で愛を叫ぶ』『人のセックスを笑うな』『君の膵臓をたべたい』『夫のちんぽが入らない』『由麻くん、松葉くずしはまだ早い!!』かそれ以上
これだけで観たくなるのも無理はない
今回2度目の鑑賞だが前回これは自分には合わない思った
あれから数年経ったが今回もやはりそれはあまり変わらなかった
ミニシアター系でハリウッド以外の海外映画を好む都会的なインテリなら楽しめるかもしれない
この作品の存在を知ったのは二階堂ふみのウィキペディア
彼女のお気に入りらしい
95年の日本初公開に観たんだろう
89年の作品だがモノクロ
監督の子供時代を元にしているからだろうか
終戦直後のロシアの炭鉱町
日本人の収容所がある
主人公は地元の男の子ワレルカは悪戯小僧
ヒロインは同い年のガリーヤ
最後は悲劇的な幕引きになるのだが小太りの中年女が野外でいきなりスッポンポンになるシーンが1番印象的
逆に、現在の日本映画には生き生きした人間がほとんど出ない。のっぺりしている。そうかと思うと、映画館を出てからもすれ違う人すれ違う人がのっぺりしている。平和な世界と混乱の世界のジレンマ。
ストーリーが特に複雑というわけではない。
戦後1950あたりのロシアのど田舎を二人の子供を通して理解すると言う話。
そして二人が時代に飲み込まれて行くのを僕らは静観させられる。
それはいろんな意味で面白く、辛い。
出演者は少年の母親以外ほとんど素人。
監督の子供のころの記憶を基に話は設計されているようで、その点でちょいと前に見たOn the Milky Roadと比較して、国民性と言うか、お国柄と言うか、色彩と言うか、白黒の映像も妙に納得した。
貧しい炭鉱の町の近くには、被抑留日本人もいる収容所があるようだ。いや、正確に描写しなおす。町の外れに収容所があるのではなく、町そのものが収容所のようだ。
町外れで労働する旧日本兵たち。棚を注文されたのに棺桶を作ってくるという、笑うに笑えない悲しいギャグが冒頭にある。
気がふれたことで「自由の身」になったのだと、町の人々が憐れむ元学者。
妊娠すれば解放されると信じて男を抱き込もうと必死の少女。
彼らは登場人物というよりは、物語の背景に立ち現れるだけの存在である。しかし、この人物たちの何と強烈な印象を残すことか。
それは、この町が収容所を備えているというよりも、その境界が曖昧で、町そのものが収容施設みたいなものだという状況を示している。
彼らへの目くばせを避けられない観客は、映画の描く世界では国家や社会が収容所そのものであるという住民の感覚に近いもの体感することになる。
観客はまた、20世紀社会の産業化、収容所化を推し進めた鉄道を通じて、少年少女のまだ始まったばかりの人生が捻じ曲げられ、そして終わらされるという不条理を見ることになる。
収容所のようなこの町から外へ出る手段は鉄道しかない。
金のない者が貨車へ潜り込んだことがバレてしまえば、鉄道員からの血の制裁が待っている。鉄道は権力の象徴であり、決して貧乏人を幸せにする社会資本としては描かれていない。
であるかこそ、線路のポイントに細工をして列車を脱線させ、機関車を転倒させた少年には、権力を倒そうとした罪の重さがのしかかるのだ。この重さは少年にとっては、宝石商を殺すことよりも重かったのかも知れない。
少年が強盗団と一緒にいるところへ幼なじみの少女が迎えに来る。少女が鉄道転覆のことはほとぼりが冷めていることを告げるや、少年は故郷の町へと戻ることを決める。
スーチャンへは、おそらく心優しい鉄道員が目をつぶってくれたのだろう、二人は列車に乗って戻る。
町の近くを通ったときに列車を降りた二人が並んで線路を歩く。ほんのひと時、鉄道はこの少年と少女を優しく包み込む世界の象徴となる。
しかし、後続の列車が近づいたとき、二人は線路の両脇へと列車を避けるのである。この直前、少年がふざけて列車と接触するギリギリまで線路に立つ。ここから鉄道は再び不穏な表情を見せ、二人を何の躊躇もなく隔てるのだ。
列車がゆっくりと二人の間を通過する間、少年少女はは車輪と車輪の間に石を通す遊びに興じる。この時の二人のこの上ない幸せそうな表情がかえって切ない。案の定、列車は不穏さを増していき、列車が過ぎ去ってしばらくすると悲劇的な結末を迎える。
二人が再び立つことのなかったスーチャンの町では少女の家に人々が集まっている。
気のふれた彼女の母親にも驚くが、「子供はもういい。あとは女を撮ってくれ。」という監督の声にはびっくりさせられる。
この瞬間、観客は映画の世界から現実へと引き戻される。まるで催眠術師が被験者の眼前で指をパチンと鳴らしたときのように。
8年ぶりに鑑賞。
舞台は第二次世界大戦終戦直後のソビエトの貧しい炭鉱町スーチャン。主人公ワレルカの周りにいる人々(母親、教師、ギャングなど)は、みんな心に余裕が無く、険しい表情でせかせかとしている。そんな厳しい環境の中、唯一ワレルカを理解し、常に気に掛け、助けてくれる少女ガーリヤ。ワレルカにとって唯一の希望でもあり、まるで天使の様な存在で印象的だった。
終戦直後のくたびれた空気感が、モノクロを駆使して見事に表現されていた。発狂した元学者や、手や足の無い元兵士らしき人たち、日本人捕虜なども劇中に登場し、戦争によってもたらされた後遺症の残る街並みや時代背景がなんとも切なかった。随所随所で流れる日本の民謡も切なく印象的だった。