恐るべき子供たち
プロット
フランス
08月14日 1976 台灣上映
ジョッキーを夢見る子供たち
プロット
フランス
01月24日 2009 台灣上映
ある日、ある女。
プロット
日本
05月20日 2023 台灣上映
子供はわかってあげない
プロット
日本
08月20日 2021 台灣上映
秘密の子供
プロット
フランス
11月01日 1997 台灣上映
子供の情景
プロット
イラン・フランス合作
04月18日 2009 台灣上映
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ある子供評論(14)
『ある子供』とは赤子と少年の両方だ。赤子にした仕打ちに対して、何の呵責も責任も感じない。それは、悪意に満ちたものではなく、たんに無知なだけであり、それゆえ愚かなだけである。
一方で、少年を巻き込んでしまったこと、怖い思いをさせてしまったことに対して、呵責や責任を初めて知ることとなった。
また、頭をこすり合わせるシーンもこれに当たる。最初のシーンでは、まだ精神的にまだ子供で、気楽さという面が前面に出ていた。
しかし、最後のシーンでは、精神的に大人になり始め、気楽さは引っ込んだ。
これらは無知ではなく、自分の責任を知ったことによるものだ。
最後のシーンによって、赤子を売った重大さへと循環する。これが、反復の力である。
ブリュノは母から何を学んで
子供というものをどう理解しているのか。
何も理解しないまま父親になったある子供。
ラストシーンの先には希望は見えるとは思わないが
これはそういった現実を訴えた作品なのだと感じた。
ヨーロッパの失業率は悪い。特に舞台となったベルギーでは12~13%の失業率なんだそうだ。失業率が10%を超えると、いつ革命が起こってもおかしくない状況なのですが、それをどろぼうという手段で生活しようとする奴も多いのであろう。生きるためには何をやってもいいといった思想が根付かないようにしたいものですが、この映画では問題提起だけで終わっているかのようだ。
主人公ブリュノは大人になりきれない男。自分の子供ができたって、品物と同列に見てしまう。恋人ソニアはぎりぎりのところで彼を叱咤するが、叱られてからようやくコトの重大さに気づく男。母親からは独立しているかのようでしたけど、実際には利用しまくり。そして、13歳の子供を子分として使い、ひったくりを繰り返すが、最後には警察に追われるハメになってしまう。逃げるため川に飛びこみ、凍えそうな経験もするが、その子分が捕まってしまい、最終的には自首する・・・
この自首によって一筋の希望が見出せるものの、そんな簡単に性格は変わるものではないだろう。改心して出所しても失業生活はずっと続くだろうし、世の中を変えるしかないのです。手ぶれカメラによってドグマ映画のような効果とドキュメンタリーのような効果。クロースアップや無駄な部分をカットして、芸術性を高めていますが、なぜかのめり込めなかった・・・やっぱり、ひったくりが許せないと感じたからかなぁ・・・
「草食男子」が流行っている(?)現在、本作の主人公はまさに「草食男子」の典型だ。「草食男子」の大きな特徴は、“物欲の無さ”と“優しさ”だ。定職に付かず自分より年下の少年たちと盗みを働いてその日暮らしをしているのは、基本物に欲がないからだ。欲望の無さは野心の無さ。大金を掴みたいとか、いい女と寝たいとか、小さな欲望すら無いから、こんな現状から抜け出そうとも思わない。だが彼はとても優しい。盗みは働いても人を傷つけることはしない。自分の子供を産んだ若い恋人に、ペアのジャケットを買ってやる。「認知してね」と言われると「いいよ」と言う。そう、彼は人から物を頼まれると断らない。そこには“優しさ”以上に“無知”という最も厄介な要因があるのだが・・・。タイトルの『ある子供』とは生まれた赤ん坊ではなく、彼自身のことを指している。彼はお金のために自分の子供を売るという非人道的な行為をしてしまうが、それは悪人だからとか、無責任だからとかいうのとは全く違う。もし彼が悪人であり、無責任な男なら、妻と子供を捨てさっさと姿を消すだろう。無責任というのは責任を取ることを拒むこと、つまり責任を取る重大さを知っているということ。しかし彼の場合は父親になるという責任を全く知らず、子供は彼にとって犬や猫と一緒なのだ。20歳の男のこの未熟さを一方的に責めることはできない。彼の周囲にそれを教えてくれる人も、それ経験する機会も無かったのだから。男性の場合、自らがお腹を痛めて子供を産むわけではないので、父親の自覚が無いのはなおさらだ。それに比べ、18歳の彼女には早くも母親の自覚が生まれている。彼から子供を売ったと伝えられた時の絶望。思わず気を失う彼女を見て、彼も徐々に事の重大さに気付き始める。あわてて子供を取り戻す彼は、やはり優しい人間なのだ。代償として大金が必要になり追い詰められた彼は、ひったくり(ここでも強盗などの大きな罪を犯さないところが草食男子たるゆえん)をしたため、相棒の少年が補導されてしまう。少年を助けるため、自首する彼は、やはり優しい人間なのだ。この一連の事件から、彼の中に芽生える責任感と自責の念。面会に来た彼女の前で号泣する彼に、未来はあると信じたい・・・。
ダルデンヌ兄弟が撮る映画の特徴と言えば、それはズバリ《大どんでん返し映画》だ!
「はあ?何言ってんだ!」との意見は当然の様に出るだろう。
何しろ、その手の手法は一切使っていないし。兄弟2人に直接「…ですよね!」等と聞いたなら、一笑に付されてしまう事だろう。
ただ!…。
ダルデンヌ兄弟作品には。映画のラスト直前まで、対象としていた人物は。常に【絶望の淵に立っている】事が多い。
まさに画面が暗転し、上映が終わる寸前まで…。
ところがその状況を、僅か数十秒で一変させ。映画は【希望の光】を見出し上映は終了する。
《大どんでん返し》を売りにしている映画は世に多い。
脚本も、ラストに向けての前振りを周到に準備し。観ていると、〝それ〟だけに力を入れている様に感じる作品もある。
〝それ〟が上手く行っている作品ならばまだ良いが。寧ろ〝それ〟がアダと言う名の【縛り】となってしまっている作品に至っては…。
最近、同じ劇場にて。『イゴールの約束』『息子のまなざし』と。これで3作品を見直した訳ですが。ダルデンヌ兄弟の凄いところは、その全てが《どんでん返し》を売りにする作品と違い。登場人物の【感情表現の起伏】によって、最後に《一筋の希望の光》を対象とした人物に降り注ぐ。
そんな映画の魔法をダルデンヌ兄弟は、観客に向けてもまた振り掛けているのだ。
初見 恵比寿ガーデンシネマ
2019年11月18日 シネマブルースタジオ