天気の子
プロット
日本
07月19日 2019 台灣上映
ジャンヌ 愛と自由の天使
プロット
フランス
04月01日 1995 台灣上映
フランツの自由
プロット
西ドイツ
08月01日 1999 台灣上映
ファミリー・ゲーム 双子の天使
プロット
アメリカ
08月14日 1999 台灣上映
筆子・その愛 天使のピアノ
プロット
日本
01月20日 2007 台灣上映
自由の幻想
プロット
フランス
11月01日 1977 台灣上映
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由宇子の天秤評論(17)
小説だ。
自分事でもあり、ありそうな話。
と、目を釘付けにさせてしまった。
だから、すごい映画に仕上がっていた。
自分の田舎がロケ地だっただけに
やけにリアルだった。
ドキュメンタリーを作る現場人のドキュメンタリーって感じ〜。 正しいことは良い事?正直なとは良い事?何かが起きるとそれを喜ぶ人も居れば、それによって傷つく人も居るし救われる人も居るのは事実。それでも私は事実を知りたいと思う。真実を知りたいと思う。でも当事者になったら由宇子と同じ行動するだろうなぁ〜
滝内さんは素敵な女優さんだなぁ〜
正義とは?という命題は、これまでもたくさん描かれてきたし、これからも描かれ続けるはずです。時代がどう変わろうが、永遠に答えの出ないテーマだからです。
戦争であれ、法廷であれ、企業であれ、学校であれ、震災のような災害の場であれ、〝その時、自分はどこの誰としてそこにいるのか〟によって正義と呼ぶべき大義や対象は様々です。
救うべき或いは守るべき相手は、国家なのか、帰属集団なのか、個人なのか、その個人は社会的影響力のある人物なのか(アメリカ映画なら大統領とかがそうです)、影響力はないが愛する家族やペットのひとり(一匹?)なのか。
そしてそれらの要素が複層的に重なった場合には、シンプルに正義か否か、という選択肢は消滅します。
何かひとつを選択すれば、それに見合う何かをひとつかふたつ或いはそれ以上に失うことになります。
その場合に判断しなければならないものは、〝優先順位〟であって、〝正義〟ではない、という状況になります。
それまでの由宇子は、冷徹に真実を客観的に伝えるという芯の通ったブレないプロ意識に裏付けされた信念がありました。
そして、それを貫くための唯一の条件が〝当事者ではない〟ことでした。
思わぬところから当事者そのものになってしまった由宇子には、当事者でない時には封印できた〝良心〟とか〝良心の呵責〟という人間性の真実の一面が重くのしかかってきます。
当事者でなければ、優先順位の判断基準は合理性(傷つく人が一番少ないと想定される選択を取る)で割り切れたはずなのに、当事者としての良心は、本人にとって失うものが最大化するような不合理な判断(実際に命まで危険に晒すことになった)をさせることになります。
一方で、打算的な動機を背景に始めたはずの小畑萌への個人レッスンからは暖かな絆が生まれたのも事実(万引き家族における樹木希林と松岡茉優との関係性にも似ています)。
少し書き過ぎました。
あとは一年に数本あるかないかの胸アツというよりは胸オモの作品を一人でも多くの方がじっくりと味わっていただくことを願っています。
常にゴールをずらすように、真実を知らない観客を手玉に取るストーリーだ。
自分は、こういうタイプの作品は、本作も含めて、不快に感じて好きではない。
しかし、「物事はシロクロ決まるもんじゃない」ということが、まさに本作で監督の訴えたいことだったならば・・・。
黙る。隠す。嘘をつく。
主人公までが。
由宇子の行動は、“しがらみ”の中にあり、“しがらみ”で身動きが取れない。
萌や矢野の娘へのケアは、純粋な善意からなのか。あるいは、仕事がらみや、“贖罪”のためという、利害・打算のためでもあるのか。
しかるべき行動をとりたくても、罪を犯した人間だけでなく、周囲の人間が一網打尽に被害を受けてしまう。
テレビ局からは、捏造や隠蔽を求められる。
由宇子が陥る、そういうジリジリした様々な“囚われ”の状況を、リアリティ豊かに描写している点が、本作の最も優れているところだと思う。
キャラクターの設定は、萌の父親のキャラが定まらないこと以外は、良かった。
俳優の演技も、みな納得だ。
瀧内公美は日本の俳優では珍しく“間(ま)”を作ることができるし、川瀬陽太はしょーもない軽さを相変わらず醸し出している。
ただ、150分という長尺を使って、いろいろと詰め込んだわりには、まともに回収されないまま終わったのは残念だ。
「2つのストーリーが、一体どう交わるのだろう?」とワクワクして観ていたが、結局、由宇子が両方に関係しているだけだった。
「俺たちがつないだ(編集した)ものが真実だ」というマスコミの虚構や、困窮した父子家庭における妊娠した娘と父の関係がメインテーマかと思いきや、突然、あっさりと決着が付く。
別に“解決”などしなくて良いのだが、由宇子以外の全員が、どうなったかも分からずにフェードアウトしてしまうような作り方は、大いに不満だ。
また、ここぞという重要な静止のシーンでさえも、常にカメラだけが揺れ動いていたのはどういうわけだろう。
グッと画面に集中することが難しかった。