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夜霧のマンハッタン プロット アメリカ 01月01日 1900 台灣上映
霧の夜の男 プロット 日本 07月08日 1962 台灣上映
ウディ・アレンの影と霧 プロット アメリカ 08月01日 1992 台灣上映
夜霧の恋人たち プロット フランス 08月23日 1969 台灣上映
青い夜霧の挑戦状 プロット 日本 03月12日 1961 台灣上映
夜霧のしのび逢い プロット ギリシャ 11月16日 1965 台灣上映
夜と霧評論(10)
私がアウシュビッツビルケナウ収容所で初めて知ったのが、一番初めに収容所に入れられたのは、ユダヤ人ではなく大学教授などナチスに反対する知識人達ということです。それが、共産主義者、社会主義者、ユダヤ人、ロマ、同性愛者などに広がっていったと。だから、ナチスの選民思想は決して人種の問題だけではありません。
アウシュビッツビルケナウ収容所解放から約10年後、アラン・レネは初めて収容所の残虐行為を告発した作品として今作を発表した訳ですが、残虐なビジュアル(ドイツ軍が撮ったと思われる人の頭部や死体の山)を映し出す記録映画にした事は、とても勇気がいったと思います。ナチスや収容所は、加害国ドイツだけの一方的な問題ではありません。アラン・レネの母国フランスをはじめ、協力者や協力国があったからこそ、ヨーロッパ諸国全体の問題に帰結するのです。と同時に、このビジュアルほどファシズムを一言で語れるものはありません。アウシュビッツビルケナウ収容所でも、多少の画像があっただけだったので、私も今作の様な映像を観たのは初めてです。
日本での初公開時には、残虐シーンが過激であるとして数分のカットを入れて上映したと何かでみたのですが、本当に信じられない気持ちです。作品の一部を削るなんて。昨今の日本でもはだしのゲンが残虐だとか言う馬鹿げた人もいるので、日本人が現実に向き合う強さを持ち合わせていないのかとも思って虚しくなりました。
アウシュビッツビルケナウ収容所を訪れた時に意外だったのが、ヒトラーという個人名が出ることがほぼなかった事です。収容所の理念として、ファシズムは、ヒトラー個人の問題ではなく人類全体の問題、自分自身の問題だからだと。
この作品に映し出される笑いながら人を殺す人、裸になって並ぶ人、人体実験をする人、人体実験をされる人、それはフィルムに映しだされている他人ではなく、全て『私』なのです。今作は『私』の写鏡だからこそ、皆に鑑賞して欲しいです。
穴がずらっと並ぶトイレ、裸でガリガリの皮と骨だけになった男たち、目見開いたままの死体、別棟の人体実験施設、コンクリの天井に残る爪痕のくぼみ、大量の女性の髪の毛、桶に入った斬首した頭、死体の山をブルドーザーが押しのける、収容所で働くカポは言う「責任はない」と。
タイトルは国家に対して反逆の疑いのあるものは、秘密裏に(夜陰に乗じて霧に紛れて)家族まるごと捕縛して収容所に拘禁せよという、ヒトラーの特別命令に由来。
こんな思い絶対したくない。
でも、目を背けてはいけない。
一度は必ず見るべき。
何度でも見るべき。
人間は戦争というものを通した時にこんなにも変わってしまうのかと、とても驚きました。
短編のドキュメンタリー映画とはいえ、内容は本当に深く、重く、改めて大切なことを教えてくれます。
カラーと白黒を使い分けているところも良いです。
当時の生々しい映像はとても残酷でとても怖いです。
口を開けた生首や女性の毛髪、裸にされ、骸骨のように痩せこけている人々、ゴミのように扱われる無数の死体。
この人たちだって昔はちゃんと普通の人間として生きていたのに、とても人とは思えない姿になってしまっていて、ただただ衝撃でした。
現在の平和な日本ではとても想像がつかないですが、これは70年ほど前に起こっていたリアルなことです。
もちろん当時は日本もこのようなことを行なっていたと思います。
日本では、あまりヨーロッパの戦争について知る機会はないので、同じ枢軸国であった以上、この事実をこの映画によって知るべきです。
できれば、実際に現地に足を運び、自分の体で感じたいとも思いました。