今世紀初頭のロンドンとヴェネツィアを舞台に、新時代の波に揺れる恋人たちの愛憎劇を描いた文芸ロマン。ヘンリー・ジェームズ(1843~1916)の同名小説(邦訳・講談社文芸文庫)の映画化。監督は「バック・ビート」『サイバーネット』(V)のイアン・ソフトリー。脚本は「日蔭のふたり」のホセイン・アミニ。製作は「十二夜」のデイヴィッド・ハーフィットとステイーヴン・エヴァンズ。製作総指揮は「ナイトウォッチ」のボブとハーヴェイのワインスタイン兄弟とポール・フェルドシャー。撮影はパトリス・ルコント監督作品で知られるエドゥアルド・セラ。音楽は「勝手に逃げろ、人生。」のガブリエル・ヤレド。美術は『サイバーネット』(V)のジョン・バード。編集はタリク・アンワール。衣裳は「ベルベット・ゴールドマイン」のサンティ・パウエル。出演は「十二夜」のヘレナ・ボナム=カーター、「司祭」のライナス・ローチ、「この森で、天使はバスを降りた。」のアリソン・エリオット、「愛と勇気の翼」のエリザベス・マクガヴァン、「エンゼル・ハート」のシャーロット・ランプリング、「ジキル&ハイド」のマイケル・ガンボンほか。
鳩の翼評論(5)
ミリーにはマートンとのことを友人だと紹介したために、ミリーも彼に恋をする。病気のミリーに同情したケイトはマートンを譲ろうとするが、キスシーンを目撃すると決心が揺らぐ。やがて、静かにミリーは逝ってしまうが、その描写があまりにも静かで、死んだのかどうかもわからないくらいだった。
ヘレナ・ボナム・カーターが大胆ヌードにもなっているが、ロングショットでもあり、セックスシーンも体を合わせているだけの静かな演技。もっと彼女の心理描写を重要視するべきなのだろう。無駄にシャーロット・ランブリングやマイケル・ガンボンを出演させているような気もする。
午後の光を浴びながら、石段に斜めに身を横たえて ゴンドラの行き来を眺める。
きざはしの上には読みかけの本と、藁苞(わらづと)のキャンティ。
リンゴとパン、そして無造作に投げ出された女神たちの日傘・・
三人でのデートはあまりにも絵になるけれど、でも僕は気付く、そうなのだ、
ミリーが撮ったカメラには、親友ケイトと、(ほのかに心寄せる)マートンしか写っていない。
・ここに来れて良かった、
・友達も出来た!
・思い残すことはない。
サン・マルコ寺院のバルコニーで独り、ハンケチを握って嬉しさと見納めの十字を切るミリー。
ミリーは、「嘘」がわかっている。でも割りきれない。夢が見たい。
ミリーは羽目を外したいのだ。でも“去っていく者として”こんなにも自分にブレーキをかけている。
死を前に、英国~イタリアと旅をするこの美しい乙女ミリーに対して、せめては精一杯のもてなしを贈りたいと願った、恋人ふたりの奔走と葛藤がひりひり痛いのです。
そして地味だけれどミリーのすべてを知って支える黒髪のスーザン(エリザベス・マクガヴァン)からも目が離せない。
ミリーのメイクがどんどん変容する。ベニスは美しい街なのに、なぜ死と切り結ぶのだろうか、
小さな礼拝堂で、修復の足場に駆け登って「職人は何処?修復の完成、我見ること能わず」と嘆くミリーに、屋根裏のどこかで鳩が静かに啼いたのでした。
鳩の声が心に残ります。
鳩の声はミリーの声。
マートンはしがない新聞記者。後日彼が執筆した小説がこの思い出の日々のプロットになった・・と言った感じですね。
「じきにすべてが順調に運ぶわ」と遺言のように呟いた亡き友の声は、マートンとケイト、=残された二人の いまだ心の天蓋に響いているのではないかな・・
撮影、構図と光。そしてもちろんあの衣装と小道具のすべてが落日の階層を見事に捉えて、これは紛れもなく大作です。
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「死の間際の友人のために、
例えどんな犠牲を払ってでも、出来得る限りの持っているものすべてを捧げたい」と願った経験のある人ならば、
共感のさざ波は、ひた寄ってくるのではないでしょうか。
ヘレナ・ボナム・カーターが奔放で
好きなのだが ここでは貧乏に苦しむ美女
を演じている
(監督はイアン・ソフトリー)
友人の金持ち美女と主人公とその恋人の
三角関係が ( 見ているほうには楽しい)
主人公にはだんだん苦しみに変わってゆく
金持ち美女は 育ちもよく知的で 優男との
美しいイタリア旅行をより美しくする
出自の違いで勝敗が決まってしまう
のだろうか…
金も恋人も手放せない主人公は 小賢しく、
美しい景色の中に沈んでゆく…
主人公を責めることはできないが
恋愛において 自分をどう魅せていくか
は戦略でもある
ライナス・ローチの優男っぷり、
シャーロット・ランプリングの冷たい
まなざし、そして何よりイタリア旅行の
映像が流麗で美しい
なお、製作総指揮がワイスタイン兄弟で
びっくり!
数年ぶりに鑑賞。
前にSFサスペンススリラーの評で「ネタバレ状態だとあんまり楽しめない」的なことを書いたけど、この映画の場合、ネタバレ状態だとより一層、涙腺を刺激される。気がする。
タイトルのミイラは何かと言うと。ケイト(ヘレナ・ボナム・カーター)は、たぶん冒頭では拝金主義の伯母が好きではないし、束縛を嫌がってもいるし、また、愛する恋人マートンと自由に恋愛して結婚したいと思っている。
でも、身寄りのない彼女の後見人になり、阿片窟に入り浸ってるケイトの父親の生活の面倒を見てくれてるのも、伯母。
おそらく没落貴族である彼女の一族のために、自分たちより上の家に嫁ぐより他、選択肢がない。
泣く泣く一度はマートンと別れるケイト。そして時を同じくして、アメリカから来た死期の近い超絶お嬢様ミリーとお近づきになる。ケイトの彼氏とは知らず、マートンに好意を抱くミリー。
魔が差すっていうのは怖いな、と。伯母が「策略」を巡らすと言って揶揄してたはずのケイトが、いつの間にか、コワい顔で策略ばかり巡らしている。ちょっと違うけど、ミイラ取りがミイラに、という言葉が浮かんだ。
最初のうちは、ほんの出来心だった気もするんだけどね。ミリーの純情を踏みにじった訳だからね、、自分の純情をいちど犠牲にしたように。
ヴェニスが美しいですね。当時のアメリカ人の好みなのか、ミリーがよく着てるサテン?のドレスがとってもモダンで、髪に巻き付けたショールも相まって、まるでミュシャの絵を見てるようです。
現代でも結婚詐欺とかありますけれども、なかなか立証が難しい類いのものと思います。恋愛なんて当事者同士の話で、非常にあわあわとしたもので、即、法で裁けるような罪ばかりではない。
でも、法で裁かれないなら何をしてもいいかって言うと、そうもいかない。モラルがあるから。
この話は、観る人のモラルに訴えるところがあると思う。計略と罪の意識。許しと諦念。
目的を果たしたとして、自分たちが何事もなかった顔で笑えているか、結末は誰にもわからない。
愛し合うケイトとマートンが互いに別々の方向を見ながら、二人とも暗闇に怯えるように目を見開いているのが印象的。