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ミッドナイトスワン評論(20)
この映画は新宿の片隅で孤独に生きるトランスジェンダーの凪沙と母親に育児放棄された少女、一果の切ない愛の物語です。
どんな世界が描かれているのかドキドキしながら観賞して、衝撃を受けるシーンもありましたが、日が経つにつれて、心の中に温かいものが残り、渋谷慶一郎氏の美しいピアノの調べと共に凪沙の優しい表情や一果の美しいバレエのシーンが思い出されて、とても印象的な作品になりました。
どの俳優の演技も素晴らしいですが、草彅剛さんの自然な演技に心を揺さぶられ、服部樹咲さん、上野鈴華さんの瑞々しい演技に心を打たれました。
この映画は現代社会の生き辛さや人がなりたい自分になって生きるにはどうしたら良いかなど、いろんな事を考えるきっかけになると思います。
一人でも多くの映画ファンに観て頂きたい作品です。
主人公がトランスジェンダーという事で躊躇している方は現在公開されている925秒の映画予告を見てみてください。
また、観賞の際には、是非、エンドロールの最後までご覧ください。
そして、今作が銀幕デビューとなる新人・服部樹咲が、どこまでも可憐で美しい。幼年期から続けるバレエにより体幹がしっかりしているのだろう、不思議と目が彼女を追いかけてしまう。末恐ろしいと形容すべきか、この新人女優の果てなき可能性も必見である。
朝イチで映画館に向かいます
切なくて美しいミッドナイトスワンの世界
見終わった後もずっと心を掴まれたまま。凪沙の草彅剛はそこに凪沙として確かに存在していました
まるでドキュメンタリーを観ているよう。一果も素晴らしい。ラストシーンは一見の価値があります。ぜひ、多くの方に観てほしい。
先行上映にて鑑賞。
草彅剛、服部樹咲、水川あさみらを筆頭とする出演陣の”確かに私たちと同じ社会のどこかに根差して生きている”と思わせる人物造形は素晴らしかった。
とくに草彅剛と水川あさみ。これはドキュメンタリーなのではないかとすら思わせると同時にきっと彼女たちの幼少期はこんな感じで、こんなことで傷ついて、きっとこんな成り行きで早織は一果をもうけるも父親に逃げられて、昼職にトライはするも上手く収入を得られなくて等、しっかり想像をさし挟める奥行きがあった。この奥行きによってこの映画がドキュメンタリーではないことを思い出された。
LGBTQの方が置かれているリアルについての考証もしっかりなされている。それだけでなくLGBTQの方をとりまく社会のありようへの眼差しも感じた。主人公が一般の会社面接に行くシーンがとみに昨今のLGBTQ側に置かれていない、いわゆる”普通のひと”という強者の状況を表している(講習を受けて学んだつもりだが慮ろうとしていない)(普通の自分とは違うナニカであってひとりの人間として見ていない)
色の対比も良かった。生まれながらの女であり一果の実母である早織は主に青(水色)の寒色、生まれながらの女であるも肉体が男という不一致を孕んでいるオンナである凪沙は鮮血のような赤が目についた。
凪沙が劇中で(恐らく)一度だけ水色のセーターを着ているのは一果との食事で彼女がいただきますを言わないのを窘め躾けるシーンとそれに続く夜の公園のシーンだったと思う。あの時点から一果の本当の母になりたい、生まれながらの母になりたいと切望し始めたのかと感じた。
凪沙は冒頭で赤いマニキュアを塗るのに始まりことごとく赤を身にまとっている。適合手術を終え帰国した彼女は全身赤に身を包んでいた。赤は凪沙にとって”女性であることの証明”なのかもしれない。
それと同時に赤は彼女にとって”闘いの証”に違いないのだ。適合手術の最中も凪沙の赤に(鮮血に)塗れた下肢は効果的に映りこみ、術後適切なケアを怠り恥部が壊死し機能不全を起こした彼女のオムツを染め上げるのもまた鮮烈な赤だった。
男性的な肉体、自分を女だと認めない社会、無理解無配慮なセクハラ客、自分をジロジロとみる大衆、まだ封建的保守的な自分の田舎、生まれながらの女であり母である早織、戸惑い病院にいってくれと泣き叫ぶ自分の母。
凪沙が本当の自分を手に入れるための闘いの色が赤なのだと感じた。それゆえに終盤、成長した一果がNYにてバレエオーディションに臨むとき履いていたハイヒールの赤が感慨深かった。彼女もまた凪沙と同じように闘いに挑むときは赤を身に纏うのだと。
全出演陣の非凡なる演技、LGBTQのリアルへの肉薄感、色の対比は素晴らしい。名作だと思う。
しかしながら一果の感情の揺らぎが演出としてわかりにくいと感じた。彼女は凪沙にどこまで心赦しているのか、母として受け入れているのか、実母に対するそれと凪沙に対するそれとどのような違いがあるのか。
いかがわしいバイトがバレて警察にお世話になった帰り路、泣きわめく一果を抱きかかえる凪沙。食事の世話をされ躾をされ、初めて安心して愛情を感じることが出来るようになり、一緒に夜の公園に赴きバレエレッスンをするなど二人の絆の温まりようはエピソードとして劇中に垣間見え、一果の凪沙対する感情も容易に追うことが出来る。虐待する実母には出来なかった反発もしていた。(髪を切り男性として就職した凪沙にそんなの頼んでないと暴れる)
それが行方不明になっていくのは物語中盤からだ。コンクールの舞台に立った一果は緊張のあまり固まってしまう。そんな一果のもとへ凪沙も駆け寄ろうとするも結局彼女を救済したのは実母の早織だった。しがみつくように抱き合う親子に疎外された気持ちの凪沙は静かに会場を後にし、一果はこれを契機として広島に戻ってしまう。結局一果が選んだのは実母だったのかと思わせてしまうストーリーライン。
適合手術を終えた凪沙が現れた時も一果は驚き、自分から積極的に追いすがろうとはしなかった。凪沙は尋常ではない切羽詰まった様子でこんなとこで行き詰ってないでバレエを続けに東京に帰ろうと迫ってくるし、もみ合いによって露わになってしまった凪沙の胸を見てしまった驚きに動けなくなってしまうのは当然のことだろうと思う。凪沙への感情があるのは追い返される彼女を追うように玄関から転がり出てくる様から窺い知れはする。
広島の卒業式での一果の口ぶりから、彼女が何度も凪沙に会いたいと早織に頼んでいて、早織もしぶしぶながら卒業したらねと許可を出していたことはわかる。しかしながら一果が凪沙に抱く感情の熱と実母に抱くそれとの違いを描くには弱すぎる。
物語の終盤、海辺でこと切れている凪沙を一瞥した一果は『すぐ即座に』猛然と海に入っていくがそうさせるだけの愛着・執着を一果が凪沙に持っているようには見えなかった。もしくは『死んだ凪沙を一果が視界にとらえた時に、一気にそれだけの執着・愛着が降りかかってきた』という演出がなかった。
彼女はこと切れた凪沙を確認すると『すぐ即座に』海に向かって歩き出す。
初めて愛情を感じ、反発することもでき、自分にバレエの世界への扉を開いてくれた凪沙が死んだ。凪沙が与えてくれた扉を開いてようやく自身の出自や経済環境に悩まされることなく本当の自分として生きていける第一歩を、スカラシップをとったのにそれを捨てて海に入る。
『死んだ凪沙を振り返ったと思ったら顔色を変えずすぐ海に向かって歩き出す』この演出である。彼女が凪沙の死についてどんな感慨を得たのか鑑賞者に想像させるテイクが何一つなかった。無粋な回想シーンを入れろとは決して言わないが、一果の表情を一つさし挟むだとか、振り返っていったん立ち止まり、凪沙をしばし見つめてから海に歩き出すとか彼女の入水感情を動機づける演出があってしかるべきだった。彼女を海に駆り立てる感情を映像で見せる演出の欠落。ここにラブストーリーとしての前提の揺らぎを見た。
この作品は一果と凪沙のラブストーリーであるはずだ。一果の感情を追いにくいこと、この一点のみが作品を台無しにし、根底から崩していると感じた。
(9/12ノベライズ本 読了)
(ノベライズで補完すれば確かに一果の心情の移り変わりは判るが、ノベライズが完全で、それによって映画を補完しなければならないのなら、それはつまり映画は必要ないということだ)
結論、作品の出来はあまりよくないと思う。しかしながら出演陣の演技、映画美術や音楽は正当に評価され賞を取るなどしてほしいと思う。主演の彼をとりまく芸能状況を察するに日本では正当な評価は得られなそうだが。